めざめると、窓のそとに晩い月が出ていた。
 淡い光の射しこむ褥のなかで、司馬懿は懶げに起きあがった。
 頭は雲霞のようにぼんやりとしていたが、身動きのとたんに下肢の奥にあらぬ感触がよみがえり、ぶるりと胴が慄える。こわごわ体勢を変えると、裸のままの肩から、いつの間にか掛けられていた曹丕の衣がすべり落ちた。
 それをもう一度拾い上げながら、司馬懿はそっと、かたわらにあるぬくもりに視線をおくる。
 乱れきった敷布の上で、司馬懿の衣とともに、曹丕は睡っていた。
 深い寝息が聞こえる。ひらかれた眉宇には苦悶の翳も、憂慮の色も、ない。おだやかな月光に浮かびあがった寝顔に、荒涼とした野蛮さは微塵も残っていない。
 静かに上下する裸の胸に敷布を着せかけてやりながら、司馬懿はかすかな吐息をもらした。
 いまの曹魏に、曹丕の立場を知らぬ者はない。その秀でた才は余人の知るところながら、父親にはなぜか疎まれ、未だに太子として立てられることのない曹操の嫡子。彼に弟が産まれるたびに愛情を移す父親のために、起こらずともよい後継争いに裾を焼かれ、倨傲のなかに閉じこもるしかない不遇の公子。
 あのとき頬に触れたつめたさは、たしかに、この青年の寂寥だったのだろう。
 隠忍と自重の日を送りながら、彼は焦燥と孤独に追いつめられはじめている。臣下の肌に、ひとかけらの炭火のぬくもりを探しもとめるような真似をしてまで、その空隙を埋めたがるほどに。
 哀れみは、おぼえなかった。そのような感情を持つには、司馬懿は曹丕にあまりにも接近しすぎている。
 睡る曹丕の、安堵の色がただよう唇から視線を剥がし、司馬懿は窓の外に眼をうつした。
 蒼い月をおぼろに浮かべ、黒い水をたたえる水面では、夜咲きの睡蓮がつぎつぎとその白いつぼみを綻ばせ、重たげな香気をのぼらせていた。狂瀾の時が過ぎた夜は、その花が開く音すら聞こえてきそうなほどの、深いしじまに沈んでいる。

「っ……」

 さきほどの情交のさなかに咬まれた痕が、いまになって痛みだしたような気がして、司馬懿は首筋に手をやった。
 きっと腫れているのだろう、冷えた指先の温度がしみる。その傷の熱が、曹丕が残していった心のように思えて、彼は内心で自分を嗤った。

(愛してほしい、のだと、)

 彼は死んでも口にはしないだろう。狂わんばかりに希みながら、甘言を求めながら、それを決して司馬懿には許さないだろう。
 司馬懿はそれを、いくぶんか冷めた心で解っている。そして曹丕も、それを見ぬいた司馬懿の心をきっと知っている。
 おたがいに、愚かなふりをすることはできず、悟ったふりをしてみせることもできないと――満たされることは決してないと、知っていて、彼はこの先も、このような不毛な関係を求めつづけるだろうか。

(だが、)

 司馬懿は池の白い花から、もう一度、傍らで眠る主君へとまなざしを戻した。
 たとえ、なにも生まぬ、なにも残らぬ、不毛なまじわりでも――この寂しがりの青年が、かりそめにでも安らぎを見いだすことができるのならば、無意味ではないのかもしれない。
 そんなことを考えるほどには、自分はこの孤独な主に惹かれているのだろうと思った。

「子桓さま……」

 朝がくるまえには、この室を離れておかなければならない。司馬懿は、曹丕が抱く自分の衣にそっと手をかけた。しかし曹丕は思いのほか強い力でそれを抱えこんでおり、彼の夢寐をやぶらずに腕から取り戻すことは難しそうだった。
 どうやらこれは、帰るな、という曹丕なりの意思表示らしい。

(仕方あるまい)

 あっさりと司馬懿は諦めて、けだるさの残る肢体をふたたび敷布の上に横たえた。
 目がさめて、思惑通りまだ横に司馬懿がいると知ったら、曹丕はどんな顔をするだろうか。
 彼は生意気な年下の公子の、生意気な笑貌を思い浮かべたが、不思議と腹は立たなかった。
 窓の外からは相変わらず、水音と木々の葉のそよぎにまじって、甘やかな香りが運ばれてくる。――睡蓮が目覚めの時に立てる高貴な香は、人にあっては眠気をさそう。
 誘われるまま目蓋をとじると、隣の曹丕が身じろぎをして、わずかに肌が触れあった。司馬懿はその肌になぜか、なつかしいあたたかさを感じたように思った。

(願わくば、)

 この夜が、たとえ須臾の睡りのあいだでも、彼に喜ばしき夢をもたらすように。
 そんな柄にもないことを考えながら、まどろみの淵に身をひたせば、淡い月光に照らされた睡蓮の、あえかに開く音が耳に届く。
 薫香は夜の息吹に舞いながら、おだやかにすべてをひたしていった。




清怨夜曲



09/04/28 writeen by brief
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