作品 | ナノ




 カナデの眼差しは、時折、立ち込める霧のような何かに遮られることがあった。

「これが賢者さんの言ってたラーメンか」
「ラーメンって言ってもいろいろ種類があるから、これが好きとは限らないけど……」
「や、十分うまい。これなら賢者さんも喜びそうだ……あんた、店出せるんじゃないか?」
「出た、その褒め言葉」

出た?所作に、表情にあらわれないよう、忍ぶように心の中で反芻しながら、微笑みを作る。返事をするようにカナデは頬を緩めて見せた。普段滅多に崩れることのない見慣れたポーカーフェイスからは想像の難しい、優しく突き落とすような柔らかな笑みだった。水面のような水色の瞳がゆらめく。きっと、俺が今日初めて告げた賞賛を、かつてカナデに告げた誰かを映していた。覗き込んでも、立ちこめる霧が視界を遮って、水面に映る像をついぞ見ることは叶わなかった。


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「別の人生の記憶かぁ……なんか、想像できないな」
「私も、自分の妄想なんじゃって思う時もいまだにあるし……笑わないでくれて、ありがとう」
「まあ、確かに。証明出来るものはないからな」

 神妙な面持ちのヒース、射抜くように真っ直ぐとした眼差しで見つめるシノに、カナデはどこかバツの悪そうな顔で眉を下げた。だから俺はやめといた方がいいと思ったんだ。言ったし。内心悪態をつきながら割って入る俺と、続くファウスト。

「この世界には謎が多いし、おかしいことはねえだろ」
「そうだ。特に今は厄災の影響で、説明のつかないようなことがあちこち起こってる」

 本人が100年掛けてもままならない彼女の謎の解明に、協力したいと言ったのは賢者さんだった。もし厄災が原因なのだとすれば、その対処は俺たちの仕事だ。理屈は十分に理解できたが、俺は気乗りしなかった。
 ともすれば単なる夢かもしれない。でも、この世界の真理にかかわるものかもしれない。パンドラの箱のようなその未知に、ムルだけは近づけたくなかった。彼の暴力的なまでに無垢な好奇心が招いた数々の破滅を思い返す。俺とファウストが難色を示した結果、折衷案として、東の魔法使いだけの内密にして、あくまで主任務の傍らで情報収集をすることになったのだ。

「そうですよ……!それに、子供のころ、そういう物語を読んだことがあるし……」
「お前が小さいころ気に入っていた本か。よくお前が話してくれた」
「今その話はいいだろ!」

 だんだんと、シノとヒースがいつもの調子に戻り始める。元々東の気質が強いカナデに、二人はすっかり心を許したようだった。痴話喧嘩を繰り広げる二人の少年にカナデは母親のように目を細めた。また、霧が水面を覆う。

「そういえば、ヒースの言った物語の主人公は、同じ奴と何度も恋に落ちてた」

 霧を取り払ったのはシノだった。困り顔と笑顔を慎重にかき混ぜたような表情を崩さないまま、彼女は構えるように指先に力を込める。それを見逃さなかったのは、俺だけだろうか。ちらりとファウストの様子を伺った自分に、すぐ嫌気がさした。ファウストは、シノ、と口を開こうとしていたが、シノの方が一歩早かった。

「同じ奴と、どんな形でも、巡り会っていた。教師と生徒でも、組織のボスと右腕でも、……主君と従者でも」

 きっと彼は、もし自分が何度も人生を繰り返すなら、またヒースに出会えると信じたいのだろう。子供の好奇心というのは、どうしたって。遠ざけるべきはムルだけではなかったのだ。彼女の水面に目を凝らしこそすれど、身を乗り出しで覗き込むことはしたくなかった。宝物のように大切にしまい込まれているであ、う彼女の記憶を、踏み荒らしたくなかった、のに。
そう思ってすぐに、自嘲した。目を凝らすことと、覗き込むこと、何が違う?結局のところ好奇の眼差し。俺たちの嫌う詮索だ。やるせなさをかき消すように、言葉の続きを紡ぎかけていたシノを制止する。

「シノ。不用意に踏み込むもんじゃ……」
「いや。私の場合は、違った」

 俺の声を遮った涼やかな声に、全員が静まった。カナデもシノの真意は汲み取っているようだった。彼女はどこかを見ているようでどこも見ていないようなぼんやりとした視線を、適当にその辺りに置くように地面を見やる。誰もが彼女の次の言葉を待っていた。1000年の時を生きる太古の魔法使いたちの昔話を聞く時とはまた違う、恐れるような、願うような気持ちで。

「何度か同じ弟や兄がいたけど……今思うとあれは単に自分の一部だと思う」

 いつも決まりの悪い話はのらりくらりとかわす彼女にしては驚くほど、淡々と、事実だけが並べられていった。

「そもそも、恋をした人生もあれば、しなかった人生もあった。でも、恋をした人生で……誰一人同じ人はいなかったな」

 シノはひたすらに真っ直ぐ、カナデを見つめたまま、思案しているようだった。その場にいる誰もがそれを想像しようとしたが、出来るはずもない。彼女が今、誰を、どのように想い、何を感じ、何を求め、何をあきらめているのか、皆目見当もつかなかった。慮るにも術が見つからず、俺もシノと同じように彼女を見つめるしかなかった。海のような藍色の髪がするりと彼女の耳から一束落ちる。

「それは……今、どういう感覚なんだ?同時に、全員を好きな感じか?」

 あまりにも愚直に、俺たちの問いを口にしたシノに目眩がした。シノ!半ば無意識に口を付いて出た声は、自分が想像していたよりも荒っぽかった。少し焦る俺を知ってか知らずか、凪いだ表情でカナデが口を開く。

「大丈夫だよ、ネロ。……そうだね、正直、今でも夢に、代わる代わる彼らが出てくる。一人でもこの世界に居ないかって、100年探し回った」

 まあ、そう、だよなぁ。初めてあの、霧がかった眼差しを受けたことを思い出す。

「陳腐な言葉かもしれないけど、彼らのことは本当に、……好きだったと思う。その時の気持ちも、思い出も、景色も、声も、匂いも、なぜか鮮明に思い出せてしまう」

 手持ち無沙汰な指先を擦り合わせて、思案しながら彼女は言葉を進める。装飾のひとつもない、少し骨ばった指に、気を抜けば手を伸ばしてしまいそうだった。

「でも、今、ここにいる私の感情や思い出とは、別物のように感じて……うーん、うまく言えないな」
「解離している感覚か?」
「解離……確かに近いかもしれないですね。彼らは、それぞれの人生の私が、ちゃんと向き合って繋がった人たちだった。自分のことだけど……でも、他人事の感覚の方が強い」

 時折ファウストが助け舟を出すように言語化を手伝った。それが呼び水となってまた、カナデは言葉を組み立てる。彼女もまた自分の感情を整理している最中なのだ。それを手伝える引き出しを持つファウストを、率直に羨ましいと思った。俺はただカナデの言葉を聞き、カナデの姿を見つめ、懲りずに霧の中に目を凝らしているだけだ。

「運命だと思えたことは一度もなかった。だけど、それでも掴んでいたいと思っていたし、だからこそ価値を見出していたんだと思う。今でもそれは、間違いだとは思わない」

 彼女の左耳を飾る、水を閉じ込めたような耳飾りが揺れて、多面体が反射する無数の光の粒が細い首筋に散るのが髪の隙間から見えた。彼女の身に纏う全てが、別の人生とやらから持ってきた思い出と意味を孕んでいるようで。その小さな光を追い払うように瞬きをする。

「違う星に居たって、最初からそうなることが決まっていたみたいに、何度だって巡り合う二人も居るんだと思う。でも、何度も、自分で見つけて、掴むのも……ありかなって思う。なにより今ここで生きてる二人は、そうやって一緒にいるんだし」

 後半にかけて、どんどん言葉が曖昧になって、まとめ上げたのがカナデらしいと思った。ひとしきり言葉を組み立てて頭が晴れたらしい彼女は、ようやく視線をシノとヒースに向けた。彼らの瞳はきらきらと期待に満ちていた。

 何度だって巡り合うような、絶対的な運命の誰かになりたいわけではなかった。必死にもがく彼女に手を伸ばされる誰かになりたいかと言われると、わからなかった。
 俺の視線にようやく気づいた様子で、カナデが俺の方を見やった。彼女の耳飾りが再び光を弾き、今度は瞬きをする暇もなく、視界にぱらぱらと散る。永遠のような一瞬だった。彼女の水面のような瞳で、黄金色がゆらめいていた。霧は晴れていた。

「ありがとう、ネロ」

 そうか、きっと運命なんてどうだって良かった。霧がかった水面が誰を映すのかもどうだって良かった。ただ、他の誰でもなく、何者でもない俺のことを、彼女が真っ直ぐ見据えるこの瞬間がどうしようもなく心地良くて、求めていたんだ。今度はこの光景を閉じ込めるようにゆっくりと瞬きを一つ。猫の親愛みたい。カナデはへらりと笑った。胸がいっぱいになって、誤魔化すみたいに笑うことしかできなかった。





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