作品 | ナノ




ここへ来てからもう何日も経とうとしていた。背中の痣は消えかけていたけれど、引き換えにどうも何か大切なものが欠落してしまったようだった。日を重ねるごとに多く私に触れるようになった彼と居ても、まるで靄が掛かったようにひどく気持ちが冷めていく。どれほど近くにいても、本当の本当はものすごく遠くにいるみたいだった。

恐らくなんとかして私を懐柔してしまいたいのであろう彼は、私に色んな話をした。今日の練習はこうだったとか、どこぞのチームと試合をしただとか。時折手に入る雷門の近況を聞き逃さないように、耳だけは傾ける。すましたフリをして相槌を打つ私に飽きもせず、毎日毎日暇ができる度にこの部屋へと訪れた。



そんなある日、突然彼が言った。

「君に名前を付けないとね。いつまでも昴じゃいられないから」

冗談じゃないと思った。どっと押し寄せてくる真っ黒な気持ちに身を委ねたままに、「必要ないわ」と吐き捨てる。
私がこうして壊れることなく素っ気ないままに振る舞える理由の一つは「目の前のこいつはヒロトじゃない」と自己暗示をかけることだが、多分もう一つはこれだ。ただ純粋に、自己暗示では補いきれないイライラや悲しみや、その他もろもろ言い表しきれない複雑な感情を無理矢理ねじ曲げて八つ当たりに変える。やっぱりどうしてもヒロトはヒロトで、たまにどうしようもなく目の前のグランと名乗る少年さえも愛しく思えてしまう時には、涙の代わりに悪態をついた。そうすることで、私は私自身とその決意を守った。
まあとにかく、皮肉なことにちゃっかりと備わっている要領の良さはこれからも私の盾になる筈だった。それが良いことか悪いことかなんて分からないけれど。色褪せた笑顔も星空も、きっと今懸命に進んでいるであろう仲間の顔も、全部私の中にある。それだけでもう自分は無敵の存在だと、言い聞かせるようにして日々を過ごした。



なのに、どうして。ねぇ、あなた今、なんて言ったの?


「アルキオネ」


セピア色の風景の中、綺麗に滑り落ちるような声音でいつかのきみが呟いた言葉。もうずっと、何年も、私の中でそこにあって当然の物のように存在し続けていたその星の名前。爪を立てながら強引に、乱暴に、記憶がなぞられていく。喉が詰まってしまった気さえした。それほどに、この名前は、この五文字は私にとっては大切な道しるべだった。どんな時だってあの星空と私と同じ名前の星団と、その中心でひときわ輝く大きな星、そして鮮やかな赤い髪を思い出せば、私はいくらでも強くなれたの。忘れたわけじゃないでしょう?

残酷なまでに笑顔は歪んだまま、私の沈黙を肯定と受け取った。「うん、下三文字を取ってキオネ、にしよう。良い名前だ」と愉快そうに笑い声すら溢して、頬を撫でる。白い手袋越しの冷たい手じゃ、何にも嬉しくない。

「私は、昴よ」

あなたはヒロトで、私は昴なのよ。名前なんていらないから、お願いだから答えてよ。戻って来てよ。だってあなた、何をしたってどこか上の空、私を見ているようで見ていないような気持ちがするの。
本当はわかっている。結局私とあなたは同じように、お互いの過去を見ているのでしょう?今の私から、なんとか昔の私を見いだそうとしているのでしょう?

一度にたくさん溢れ出した気持ちは心の底に閉じ込めた。言ったらどうなっていたかなんて知らないけれど、はね除けたその手の無機質さは痛みだけ産み落としていった。異様なまでに美しいエメラルド色の瞳の奥深くに、失望に似た気持ちが写ったことだって、見逃しちゃいない。

もう何度突き放したかは覚えていない。数える気にもならなかった。だけれども、身体も心もその悲しみだけは残したままでいる。これは私が選んだ手段だ。すべてを照らして包めるような太陽にはなれないから、こうすることに決めたのよ。








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