「失礼しやー…す…」
声をかけることなく土方の自室の襖を開けた沖田は体を強張らせた。
「あ、沖田さん」
何故かそこになつみがいたのだ。
「…何、やってんでィ」
「土方さんのお手伝いです」
「手伝い?」
眉をひそめながら沖田はなつみの手元を見る。そこには数字が書かれた数十枚の紙とそろばんが置いてあった。
「アンタそろばん使えるんですかィ?」
「え、なんですかその人をバカにしたような目は?」
「お前ェはバカだろう」
「……」
言い返すことが出来ずなつみは唇を尖らす。
「確かにそうですけど、なんかこう…」
「何グチグチ言ってんだ香坂。口動かしている暇があったら手を動かせ」
「あ、はい。土方さん、こっちの計算終わりましたよ」
「ああ」
土方に書類を渡し、なつみはそろばんを打ち出す。その早さに沖田は驚いた。
「総悟、お前書類持って来たんだろうが」
「え?あ、あァ…」
土方に書類を渡すが、視線は真剣な顔でそろばんを打つなつみへ向いている。それに気付いた土方は苦笑した。
「意外か?」
「まあ…」
普段の言動を見ているととてもそろばんと言う特技があるようには見えない。
「言っとくがアイツ、読み書き漢詩も完璧だぞ」
「マジでか」
「ああ」
「バカじゃなかったんですねェ」
「率直過ぎるだろお前…」
土方は呆れた目で沖田を見る。
「早いし適確だし助かってる。さらに意外なことにアイツは達筆だからな。上への報告書も任せられる」
「へェ…」
土方の口ぶりからしてこうやって仕事の手伝いをするのはたびたびあったのだろう。
それなのに、沖田は知らなかった。なつみが勉学が出来ることも仕事の手伝いのために土方の部屋に通っていることも。
ピンッとなつみはそろばんを弾く。
「土方さん、出来ました」
「ああ。今日はもういい。助かった」
土方に誉められたなつみははにかむ。
なんだか胸に違和感を覚え、沖田は早々とこの部屋から立ち去ることにした。
「俺ァ、これで失礼しやす」
「あ、沖田さんあたしも行きます!それじゃあ土方さんおやすみなさいっ!」
「ああ」
なつみは沖田を追って部屋を出る。沖田の様子に土方は首を傾げるが、目の前の仕事にすぐ向き直った。
なつみは沖田に小走りで駆け寄り横に並ぶ。
「…アンタ、勉強出来たんですねェ」
「えっと、とりあえず、人並みには頑張っているつもりです」
なつみは照れたように笑う。
「あたし、寺子屋の先生になりたいんです」
「へェ…」
沖田は素直に感心した。
「ガキの扱いも上手でしたし向いてるんじゃないんですかィ?」
なつみの顔がパァッと輝く。
「本当ですかっ!?」
全身で喜びを表すなつみは多分今まで沖田が見た中で一番嬉しそうな顔だった。
「沖田さんにそう言ってもらえるなんて嬉しい!ありがとうございます!」
その喜び方からいかになつみがその夢を大切にしているのかが分かる。
いきなりなつみは沖田の真っ正面に回りこんだ。沖田は歩みを止める。
「あのですね、沖田さん。あたし、もう一つ夢があるんです。なんだと思います?」
「…なんですかィ?」
考えるのが面倒臭かったので沖田は適当に話しに合わせる。
「沖田さんのお嫁さんになることですっ!」
「……」
「子供は二人…いや、三人?沖田さんとの子ならいくらでもっ!夫婦円満で幸せな家庭を二人で築きましょうねっ」
なつみはにっこり笑うが沖田の顔を見て眉を垂れた。沖田は苦しそうに顔を歪めていた。
「沖田さん?」
「…なんででィ」
沖田は搾り出すように言う。
「なんでアンタは俺が好きなんですかィ?」
なつみは目をしばたたせた。
「好きだから好きなんです」
「意味が分かりやせん」
沖田は吐き捨てる。
「なんでこんなどうしようもない奴が好きなのか、俺には全然分かりやせん。こんな汚い人間なんか、」
パンッー…
乾いた音がした。沖田は呆然となつみに叩かれた頬を触る。なつみはキッと沖田を睨んでいた。
「あたしは、沖田さんが大好きです。沖田さんのことを悪く言う人は例え沖田さん自身であっても許しません!」
叫んでなつみは沖田に背を向けて駆け出した。残された沖田は呆然とその背中を見送った。
「…意味わかんねェ」
沖田は自分の前髪をくしゃりとかいた。胸の中に鉛があるような、そんな感覚。もう何がなんだか分からない。
沖田の理性が、弾け飛んだ。
陽菜が寝ようと部屋に布団をひいた時だった。
「陽菜、俺でさァ」
「…沖田さん?」
襖を開けて沖田が入って来た。
「どうし…っ」
瞬時にして陽菜は布団の上に倒され沖田に馬乗りにされる。
「沖田…さん…?」
沖田の急な行動に陽菜は困惑した。沖田は冷たい瞳で陽菜を見下ろす。
「知ってやすか、陽菜」
「…何をですか?」
「土方さんには陽菜意外に好いた人がいるんでさァ」
陽菜が息を飲む気配が沖田に伝わる。
「土方さんは別に陽菜だけを好いているわけじゃなんでさァ」
しばらく反応を示さなかった陽菜はやがて、静かな口調で言った。
「知っています」
沖田は瞳目した。
「なんで…」
「十四郎さんから聞きましたから」
陽菜は沖田を自分の上からどかせ、向き合うように座った。
「十四郎さんに言われたんです」
『俺はアイツを忘れられねェ。…忘れるつもりもねェ』
目を見開いて微動だしない沖田の瞳を陽菜は覗き込む。
「沖田さん。十四郎さんはミツバさんのことを忘れてなんかいません。今でも大切に想っていられます」
沖田は顔を歪める。
「…いや、なんでィ。姉上が…いなくなるのが…」
思い出になんかしたくない。されたくない。あの人はここで生きていた。確かに、ここにいたのに。
その証が、時が過ぎれば過ぎるほど無くなっている気がして、怖い。
「ミツバさんはいなくなりませんよ。沖田さんの心の中から。十四郎さんの心の中からも」
「…陽菜はそれでいいんですかィ?」
陽菜は微笑む。その微笑みは聖母のような神々しさや母親が浮かべるような慈愛、そして愛しい人を思う女の微笑みだった。
「私はミツバさんを想っている十四郎さんごと、好きですから」
沖田は声を失った。
「ねぇ、沖田さん。沖田さんはいったい何を怖がっているんですか?」
沖田の心を見透かした陽菜の問いに沖田は正直に答えた。
「…土方さんはいつも俺の大切なモノを奪っていくんでィ」
近藤さんも姉上も、副長の座も。
「もし俺にまた大切なモノが出来たらまた奪われる気がしてたまらないんでさァ」
だから怖いのだ。大切なモノを作るのが。
「それはなつみちゃんのことを言っているんですか?」
「……」
「つまり沖田さんは、十四郎さんが私を捨ててなつみちゃんを恋人にすると言いたいんですか?」
陽菜は眉を寄せる。怒らせてしまったようだ。沖田は困惑する。
「そう言う意味じゃありゃせん」
「沖田さんはなつみちゃんが十四郎さんのことを好きになると思っているんですか?あんなに沖田さんのこと、好きだって言っているのに」
まるでバカの一つ覚えみたいになつみは沖田のことを好きだと言う。
「なつみちゃんを信じてあげて下さい」
「……」
沖田は首を縦に振ることが出来なかった。すくっと沖田は立ち上がる。
「いきなりすいやせんでした。気が動転していたみたいでさァ。…忘れてくだせェ」
そう言い残して沖田は陽菜の部屋を出た。陽菜は不安気な表情でその背中を見送るのだった。
大きな子供の慟哭
「十四郎さん」
「どうした、陽菜。こんな遅くに」
「ちょっと協力してほしいことがあるんです」
「…?」