ぱちん、ぱちん。ホッチキスを止める音だけが誰もいない教室に響く。窓の外には元気に声を出し部活動にせいを出す運動部員たち。日直だったため先生に雑用を任された結菜は時計を見て慌てる。早く終わらせて病院に行かなくては。もう一人の日直が休みなことを恨めしく思いながらできる限り手を早める。
職員室に出来たプリントの束を担任に渡し、校門を出た時はすでに夕日が半分以上沈んだ後だった。急ぎ足で病院に向かいながらどうしてこんなに急いでいるのだろう、と自問自答する。幸村に会いに行くことは強制されたことじゃない。毎日通う必要なんてない。数ヶ月前まで一度も話したことがなかったのに。
あの寒い冬の朝。屋上庭園のプリムラの前での出会いが結菜の中で何かを大きく変えた。多分、きっと、幸村も。
『幸村のこと好きなの?』
「っ、」
今日、梨乃に言われた言葉が脳裏に響く。忘れろ。そう念じるのに、会話が脳内で再生される。
「……好きだよ。でなきゃ毎日学校帰りに会いに行ったりしないよ」
梨乃が聞いているのはそういうことじゃない。分かっていながら結菜はそう言った。ごまかすために。
だけど、梨乃はごまかされることも結菜の一瞬の躊躇いを見逃すこともしなかった。
ストローで紙パックのコーヒーをすすりながら静かにこっちを見てくる。耐え切れず、結菜は白状した。
「よく、分かんない」
それが結菜の正直な答えだった。ふ〜ん、と感無量に言う。
「好きでもない相手に毎日会いに行ってるんだ」
「………」
どうしてだろう。事実を言われただけなのに後ろめたい気持ちになる。
「毎日会いに行くなんてどう考えても彼女ポジションよね。彼女じゃなきゃ好きな相手への好感度をあげるためとしか見えない行動。なのに、好きかどうか分かからないとくるわけか。へー、そう」
なるほどなるほどと頷きながら梨乃はパンにかぶりつく。
友達だからだよ、と堂々と言えるほど結菜は幸村のことをそういう対象に見ていないわけじゃなかった。だから何も言えない。だが梨乃の言葉を流せるほど大人ではない。
「いじわる」
「いじわるをしてるの」
「うう…」
睨むが梨乃はもくもくとパンを食べている。結菜はため息をつき、ぽつりと呟く。
「私と幸村くんは似てるんだ」
梨乃は食べるのを止め二人を比べてみる。梨乃は幸村のことをそれほど知らないが見ためからの雰囲気や結菜の話しから照らし合わせて納得する。確かに似てる。
纏う軟らかな雰囲気だとか、人を引き付ける魅力を持つと同時に近付けさせない空気を持っているところとか。
「でも、決定的に違うところがあるの」
「何?」
「テニス」
「テニス?」
意外だったのだろう。梨乃が眉を寄せる。
「私には幸村くんにとってテニスみたいな存在がないの。夢中になれる何かが。だから、私は幸村くんを根本的には理解出来ない」
「………」
「幸村くんはさ、きっとテニスを続けるためならどんな無茶もする。でも、私は幸村くんを止めると思う」
「…それがダメなの?」
「うん。ダメなの。幸村くんが求めているのは無茶をする自分を支えてくれる人」
幸村にとって、テニスがどれだけ大事か理解している人なのだ。結菜には分からない。たかだか中学の部活じゃないか。そこまで一生懸命にやってどうする。無茶をして今後の人生に何かあったらどうする。
「三連覇の何がそんなに大事なんだろう」
結菜には分からない。分かりたいとも思わない。
「…だから?」
梨乃は面倒臭そうに聞いた。
「理解してやれないから好きになっちゃダメなの?なら、なんで幸村のところに行くの?」
「それは…」
「幸村はわざわざ会いに来てくれと言ってきた。結菜に感心があったから。そんなのアンタは分かってるはず。分かっていて会いに行った。そして通いつめている」
「…うん」
「つまり、」
梨乃は呆れたように言い放つ。
「アンタたち二人は始めから互いのことを意識してたんでしょ」
幸村の病室の前で結菜は足を止める。話し声が聞こえた。…真田と柳だ。今までテニス部員と病室で会ったことはあるが、それは結菜より後で部員たちが入ってくる場合のみで結菜が後から来るのは初めてだ。入るのが少し躊躇われる。
かすかだが話し声が聞こえてきた。
「地区予選はなんの問題なく勝ち進んでいる。安心してくれ」
「無敗でお前の帰りを待つと決めたからな。まあ当然だ」
「ああ」
「最近は赤也の成長が目まぐるしい。強くなった」
「そうなのかい?それは楽しみだな」
「なんでも手塚と対戦したいそうだ」
「手塚と?」
「ああ。だから左利きの先輩方に練習相手を頼んだ」
「へえ。赤也にとっていい経験になるだろうね」
テニスの話し。それはいつもと同じなのに。何故か、結菜は中に入ることが出来なかった。踵をひるがえし歩き出す。
(…ああ、そっか)
結菜は自分の気持ちをやっと理解した。あの冬の朝に生まれ、育ってきた気持ちの意味を。
(私は、テニスをしていない幸村くんが好きなんだ)
キンセンカの意味も知らず
一人っきりの病室で幸村はまどの外を見る。桜の花は散り、葉桜となった。それを少し寂しいと思い、今日訪れなかった少女のことを想う。