暗闇の中をただがむしゃらに走っていた。否、逃げていた。
ヘドロの塊のような黒い物体から。
逃げて逃げて逃げて…
突然体が動かなくなった。地面に倒れた体。指一つ、動かすことが出来ない。
黒い塊がこっちへ来る。逃げなければ。でなければ、飲み込まれてしまう。
動け動け動け動け――!!







ハッと目を開けるとそこには白い天井が広がっていた。夢…?
荒い息をしながら足、手、指、首を順番に動かす。大丈夫。動く。さっきのは夢だ。体は、動く。


「まだ、動く…」


カサカサに渇いた唇から零れた言葉は誰もいない病室に静かに響いた。
いつさっきの夢のように体が動かなくなるのか分からない。いつか、夢が現実になるかもしれない…。そう思うたびに幸村は叫び暴れたい気持ちになった。


汗を含んだパジャマは気持ち悪かったが数日続いた熱はひいたようだ。
首を巡らすと点滴の袋が視界に入った。寝る前は半分以下だったのに、今は半分以上ある。寝ている間に看護師が袋を変えたのだろう。
二週間でありえないほどの点滴をした腕はあちらこちらにカサブタができ、血管が浮き出て青白くなっている場所もあった。


窓の外を見ると白い雲が広がる。白いシーツ、白いカベ、白い床。色のない世界。
目を閉じてしまいたかったけど、再び夢におちて同じ夢を見るのが嫌だった。


「テニス、したいなぁ…」


情けない声が出た。幸村は思わず苦笑する。こんな姿、人には見せられない。


時計を見ると時刻は夕方の五時前。部活メンバーが来る時間だ。それが楽しみでもあり、憂鬱でもある。今テニスをしているみんなが羨ましくて仕方がない。どうして俺は一人、この白い世界にいるんだろう。いつ俺はテニスが出来るんだろう。そんな考えばかりが浮かんでしまう。


別のことを考えよう。
思考をめぐらすと屋上庭園のプリムラのことが気にかかった。もう咲いているだろう。それが見れないのが残念だった。


『幸村くん…?』


柔らかい声音が脳裏に響く。
小麦色の髪に翠色の瞳。近くで見た顔は思っていた以上に綺麗で、笑った顔は可愛かった。
一年生の頃からずっとその存在を意識しながら避けてきた少女。


賑やかな声と共にバタバタと騒々しい足音が複数聞こえてきた。「貴様ら病院では静かにせんかっ!」と、怒鳴る真田の声が一番うるさく聞こえる。


「幸村部長〜!」


ノックもなしに赤也がスライド式の扉を開けて入って来た。そのまましっぽを振っている犬のように幸村のもとへやって来る。


「部長、体調どうですか?熱は大丈夫ですか?」
「ふふ、もう熱は下がったよ。心配してくれてありがとう赤也」


嬉しそうに笑う赤也の頭の上に腕を起き仁王が顔を出す。


「顔色良さそうじゃの」
「ああ、おかげさまで」
「幸村くん幸村くん、コンビニで菓子買ってきたんだけどなんか食う?」
「あ、丸井先輩俺も欲しいっス!」
「バーカ、お前にはやらねぇよぃ」
「ちょ、なんでですか!ケチ!」
「んだと〜!」
「丸井くん切原くん、やめたまえ」
「まったくだ!ここは病室だぞ!」
「弦一郎、少し声を抑えろ。お前の声が一番響く」
「う、うむ…」


柳に諌められ黙る真田の相変わらずの様子に幸村は笑う。


「幸村、」


後ろにいたスッとジャッカルが進み出て幸村の方に何かを差し出した。…プリムラの花だ。
息を飲み幸村はジャッカルを見上げる。


「…もしかして、屋上庭園の?」
「ああ」


プリムラの花が入った丸い透明ガラス容器を受け取りまじまじと幸村は見た。今さっき見たいと思い諦めた花が目の前にある。


「宮瀬がお前に渡してくれって」


思わぬ名前の登場に幸村と結菜の噂を知っている赤也以外のメンバーは驚いた。そんなに意外かい?と、幸村は笑う。


「前、屋上庭園で会って話したんだ」


あの朝。屋上庭園で話し、「ありがとう」とはにかむように笑った少女のことを幸村は鮮明に思い出せる。


「あと伝言。『屋上庭園の花が全部咲きました』だとよ」
「………」


プリムラの花が咲くのを幸村は楽しみにしていた。あの日、同じような気持ちの人間がいるのだと知って嬉しかったのを覚えている。
…そうか。あの蕾が咲いたんだ。微笑みが零れた。


「…綺麗に咲いたね」


屋上庭園に咲いたたくさんの花を見ることができないことは残念だが、その一部をこうやって見れただけでも満足した。


「ふふ、嬉しいな」


入院してから花はたくさんもらった。むしろもらいすぎて匂いに酔って家に全部持って帰ってもらったぐらいだ。いつもは好きな多様な花びらの色や花粉が嫌でたまらなかった。でも、この白い部屋にはえる色とりどりの花びらが今は愛おしく思えた。


「ジャッカル、明日宮瀬さんにお礼を言っておいてくれるかい?」
「ああ」


黙ってやりとりを見守っていた赤也が好奇心いっぱいにジャッカルに尋ねる。


「ジャッカル先輩、その宮瀬さんって美人ッスか?」
「え?ああ…」
「宮瀬結菜じゃろ?あれは美人じゃい」
「私は去年同じクラスでしたが、清楚な感じの方でしたよ。たしか、お祖母様がフランス人なんだとか」
「ハーフっスか!?」
「ハーフじゃなくてクオーターだろぃ」
「うむ。小麦色の髪が自毛だと知らなくて一度注意してしまったことがある」
「うわ、真田ヒデェ」
「それは可哀相ナリ」
「なっ、そもそもお前達のように髪を染めているやつがおるからではないか!」
「プリッ」
「って、オイ赤也!何人が買ってきたもん勝手に食べてんだ!」
「うわっ、ちょっ!あ〜落ちた〜!」


ぎゃーぎゃーと騒がしくなった病室。その喧騒が今日は妙に心地よかった。プリムラの花が光を持って来たみたいだ。
幸村はいつもの柔らかい笑顔を浮かべていた。








ルピナスの小守歌



「さて、みんな。病院の迷惑になるからそろそろ黙ろうか」
『……はい…』




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