潮の匂いが鼻につく、暗い倉庫の中。陽菜は身を強張らせながら高杉と向かい合っていた。


「近藤は殺したのか?」


陽菜はグッと唇を噛み締めてから頷いた。高杉が楽しそうに喉を鳴らす。


「ククッ。神名のためならなんでもする、か。面白い女だな」


高杉は陽菜の顎を掴んで上を向かせ、互いの息がかかるほど顔を近付けた。


「お前は土方の女だと聞いたが?」


息を飲む陽菜に高杉は唇の端を歪めた。


「愛した男を裏切った気分はどうだ?」


陽菜は目を見開き、唇をわなわなと震わさせた。そんな様子を高杉はなぶるように見つめる。


「私は…」


震える唇を噛み、陽菜は瞳を揺らす。脳裏を過ぎる血まみれの近藤の姿と、悲痛に顔を歪める土方。


「後悔しているのか?近藤を刺したことを。土方を裏切ったことを」


そう言って高杉は陽菜の後ろに目をやった。その仕種で健一が後ろにいることを思い出した陽菜は近藤と土方の姿を振りはらう。


「誤解です。私と土方さんはそのような間柄ではありません。それに、私は健一様を裏切るようなことはしません。ずっと、健一様のお傍におります」


土方に恋したこと。健一を忘れようとしたこと。その全てにフタをして陽菜は言った。そんな自分の卑しさに吐き気がする。


「晋助様。おたわむれはそこまでにしておいて下さい」


高杉が何か言うよりも先に凛とした女の声が響いた。陽菜がそっちを向くと陽菜よりいくつか歳上に見える女がいた。
高杉は面倒臭そうに眉を寄せて陽菜の顎から手を放す。そのまま陽菜に背を向けた。


「晋助様、どこへ?」
「夜風にでもあびてくる。準備はお前に任せた」


女はため息をつき、陽菜と健一を見る。


「神名殿。あなたはまた子や万斎のもとへ行って下さい。彼女は私が部屋へと連れて行きます」
「はい」


頷きその場を去ろうとした健一に「あ…」と陽菜が心細気な声をあげたが健一は気付かなかった。


「こちらへ」


女に促され陽菜は大人しくついて行く。女は前を向いたまま黙って歩くので、陽菜はみょうにそわそわした。


「…陽菜さんでしたよね?」
「は、はいっ」


いきなり名前を呼ばれ陽菜は驚いた。


「申し訳ありませんが、あなたを自由に出歩かせることは出来ません。地下の部屋へと案内させてもらいます。ご了承下さい」
「…はい」


当然のことだと陽菜は納得したが、少し悲しかった。そのまま会話は終わるかと思ったが意外にも女は口を開いた。


「これは私が疑問に思っただけなので嫌ならば答えていただかなくて結構なのですが…。どうしてあなたは神名健一のもとへ戻って来たのですか?…あのまま真選組にいた方があなたにとっては幸せだったと思いますが?」
「………」


黙ってしまった陽菜に女は「言いたくないなら結構です」と言った。声に抑揚はないが、陽菜は女の気遣いを感じとった。


「…健一様は私の命の恩人なんです」


誰かにこの想いを聞いて欲しいと陽菜は想った。


祖父の葬式に参列した時、屋敷で陽菜は健一と出会った。近い年頃の者が他にいなかった二人は必然的に一緒に遊んでいた。
父と母が殺され、朝方通りかかった農民により屋敷に連れて行かれた陽菜はそのまま屋敷に住むこととなった。そして知るのだった。父と母は叔父が雇った暗殺者によって殺されたということを…。両親を殺した人間に虐げられる毎日に、陽菜は気が狂いそうだった。母の言葉に歯向かい死ぬことも考えた。憎しみに身を任せ叔父を殺すことも考えた。
そんな陽菜を助けてくれたのは健一の存在だった。


「あの屋敷の中で私に唯一優しくしてくださったのが健一様でした。健一様は、私の光でした」


そして、陽菜は知った。自分がどうして生きながらえたのか。


「叔父は本当は私も殺すように暗殺者に命じていたのです。しかし、健一様が家宝である剣を暗殺者に渡し私を助けるように言ったんです」


それを知った叔父と叔母は実の息子相手に目も当てられないような折檻をした。どうして私を助けたのですか、と泣いて問う陽菜に健一は知らない、何のことだか分からないと言い張った。


「健一様のお陰で私は今生きています」
「それが理由ですか?」
「…いいえ」


女は初めて陽菜の方を振り返った。


「健一様は…双子の兄の命を奪って産まれてこられたそうです。健一様のご両親は兄殺しの子として健一を忌み嫌いました」


腹から産まれてきた子のうち一人が息をしておらず、一人が元気に泣いているその姿を見て、一人だけ無事だったことを喜ぶのではなく、一人が死んでしまったことを悲しむのではなく、産まれてきた子を蔑んだ両親。健一は愛されるということを知らなかった。


「それなのに健一はとてもお優しいんです。私は…そんな健一様の支えになりたい」


愛を知らないのなら愛を教えてあげよう。健一によって救われた命を健一のために使おう。健一を守る。それが生きながらえこれからも生き続ける理由だと陽菜は誓った。
そう誓ったのに、健一を忘れようとした自分を陽菜は許せなかった。


「それは同情ですか?」
「いいえ。私がただ望んだだけです」
「…そう」


地下の部屋に二人はたどり着いた。陽菜は大人しく部屋の中に入る。扉を閉めようとした女に陽菜は声をかけた。


「あの、」
「何か?」
「あなたの名前を教えて下さいませんか?」


女は感情の読めない瞳で陽菜を見た。


「それはあなたが知る必要のないことです」


そう言って女は扉を閉めた。遠ざかって行く女の足音を聞きながら陽菜は小さく呟いた。


傷付けた。裏切った。
それでもなお愛おしい人の名を…










「土方さん」


名前を呼ばれた土方はゆっくりと顔を上げた。


「総悟か」


そこにはいつもと変わらない飄々とした態度の沖田がいた。


「準備、できやした」
「ああ」


土方は横に置いてあった刀を握り立ち上がった。





「陽菜を取り戻しましょう」


そう言ったのは一命をとりとめた吉村だった。土方は正直驚いた。陽菜は近藤を刺し、敵のもとへ行った。それは裏切りである。誰かが陽菜を罵ることを土方は覚悟していた。だが、そんな言葉を口にする者はいなかった。そんな土方を沖田は笑う。


「バカですねェ、土方さん」
「陽菜は俺達の仲間じゃないですか」


山崎の言葉に隊士達は頷く。


「お前ら…」


土方は隊士達の顔を一人一人しっかりと見る。


「そうだぞ、トシ」


その声に全員が振り返った。そこに立っていたのは近藤だった。


「近藤さん!!」
「局長!!」


喜びと安堵の声をあげる隊士達に近藤はいつも通りの笑顔を向けた。


「皆、心配させたな」


近藤は土方のもとへとやって来る。


「近藤さん…」


土方は俯き拳を握る。


「…陽菜は自分の意思でここを出て行った」


陽菜は土方ではなく神名健一を選んだ。つまり、陽菜にとっての幸せは神名健一の傍にいること。なら、その幸せを土方は奪いたくなかった。


「トシ。お前はそれでいいのか?」
「………」


土方は顔を上げて近藤の顔を見た。


「陽菜を取られていいのか?」
「………」
「俺は大事な娘とあんな別れ方をしたままもう会えないなんて嫌だな」
「…誰が誰の娘だよ」


土方は笑う。
脳裏によぎる陽菜の愛おしい笑顔。土方は頬を緩めて微かに笑った。


「俺も、嫌だな」


大切だから。自分の想いを殺して相手の幸せを願ったあの頃。そして、愛した人は散った。


(ミツバ…)


土方は今、また同じことをしようとしている。


「俺は、陽菜を失いたくない」


土方はハッキリと言った。近藤は白い歯を見せて笑う。


「陽菜は俺達の仲間で家族だ。俺達も失いたくない。…陽菜を迎えに行こう」
「ああ」


やっぱりこの人の存在は安心させてくれる。土方は微笑んだ。


再び夜が更け、辺りは闇に染まった。準備は調った。
土方はタバコを吸い、煙を吐き出す。…心は揺るがない。


「行くぞ!」









揺れる想い揺るがない意思




さ迷う蝶の安息地は?






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