その男はいつもやわらかな微笑を口元に湛えていた。風がそよぐように笑い、その瞳はどこか遠い場所を映していた。
「お前は揚羽蝶みたいな奴だな」
酒をあおりながらその男は言う。首を傾げる娘を見て男は苦笑した。
「闇を纏っているのに、お前は人を魅入させる」
そう言い娘の頬を触る手は夜風のせいで冷たい。優しい微笑を浮かべ男は娘を見つめた。娘はその瞳の中に映ることが嬉しかった。男にとって大切な何かだとそう思えたから。
「なぁ。お前は俺の傍にいてくれるか?」
どうしてそんなことを聞くのか娘には分からなかった。娘の命は男のモノなのに。
「はい、健一様。約束します。あなた様のお傍にいると…」
男がいたから娘は生きている。誰よりも大切な人。
だが、娘は男を記憶から消すことを望んだ。
「ごめんなさい…」
娘は涙を流しながら呟く。娘は今の幸せを壊したくなかった。男を忘れて生きていきたかった。忘れられるわけがないのに、愛した人と共にいたくてそう願った。
『あ…』
昼下がり。街中で土方と銀時はバッタリ出会った。土方はタバコの煙を吐き、銀時は銀髪を怠そうにかく。
「ちっ、嫌な奴に会った」
「それはこっちのセリフだコノヤロー」
「あぁ?やんのかテメー?」
「やだやだ、ケンカっ早い奴って」
「んだとコラッ」
銀時は死んだような魚の目で土方を見つめる。その目線に土方は眉を寄せる。
「なぁ、多串君」
「土方だ」
「多串君さ、」
「お前人の名前覚える気ねェだろ」
銀時は耳の穴をほじくりながら土方の言葉を流す。
「陽菜ちゃん元気?」
土方の眉が吊り上がる。なんでコイツが陽菜の心配をするんだ。
「…別に普通だよ」
微妙に答えるのにつまったのは、銀時が言うように今朝陽菜の様子が少しおかしかったからだ。嫌な夢を見て、と曖昧に笑う姿を土方は思い返す。だが、それをわざわざ銀時に言ってやる筋合いはない。
「ならいいんだけどね〜」
銀時は揚羽蝶を握り潰した陽菜の姿が忘れられなかった。何ともないのならそれに越したことはない。
「それじゃあね、多串君」
ひらひらと手を振りながら銀時は土方の横を通り過ぎる。だが、ふと足を止めて土方に背中を向けながら言った。
「あまり陽菜ちゃん、一人にするなよ?」
「? おい、それはどう言う…」
土方は振り返ったが、銀時の姿はすでに人込みにまぎれて見えなくなっていた。
屯所の門で土方は買い出しに行くと思われる陽菜と偶然出会った。土方を見てわずかに頬を染めるその姿は今朝に比べて随分と元気そうに見える。
「土方さん、お帰りなさい」
「ああ。買い出しか?」
「はい。あ、土方さん。近藤さんが捜されていましたよ」
「近藤さんが?…分かった。わざわざすまねぇな」
「いえ。それでは、いってきます」
土方の脳裏に銀時の言葉が過ぎる。だが、土方はそれを振りかぶり屯所の門をくぐった。
近藤の部屋のやって来た土方は部屋の中に向かって声をかける。
「近藤さん。俺だ」
すぐに入れと言う声が聞こえ、土方は襖を開けた。そこには近藤と山崎の姿があった。二人の表情を見て何かあったのだと土方は感じとる。
土方が座るのを確認すると、近藤は山崎に目配せをした。山崎は頷き、真剣な眼差しで口を開く。
「例の件で。ついに尻尾を捕まえました」
土方の瞳がスッと細められた。
通い慣れたスーパーを出て陽菜は屯所への帰路につく。ぽつりと冷たいものが顔にあたる。え…?と思い顔を上げると雨が降って来た。小降りだった雨は急に強くなり、外にいた者達は慌てて家へ向かう。
陽菜も慌てて帰ろうとするが、走り行く人にぶつかりこけてしまった。
「やだ…」
泥が着物にベッタリとつく。急いで帰らなきゃ…。陽菜は立ち上がる。
だが、その時偶然にも見てしまった。雨の中をヒラヒラ舞う揚羽蝶の姿を…。
陽菜は吸い寄られるように揚羽蝶に向かって歩き出す。
揚羽蝶を追って人気のない路地にたどり着いた陽菜は揚羽蝶に手を伸ばす。だが、揚羽蝶は陽菜の手から逃れ高く舞い上がる。陽菜が揚羽蝶を追うために足を進めようとすると、ドサッと何かが倒れる音がした。雨水とともに流れる赤。
「吉村さん!?……っ!」
倒れる真選組監察官吉村。駆け寄ろうとする陽菜だが吉村の後ろに立つ男の瞳に体が竦む。その男は右目だけで笑い陽菜を見ていた。男が陽菜の後ろに視線を動かす。
それに促されるように陽菜はゆっくりと振り返える。
ドクン…
全身の血が波うつ。体が凍ったように動かない。振り返った先にいる一人の男。その男を陽菜は知っている。
「どうし…て…」
男は微笑む。その笑顔を見た陽菜は胸が熱くなる。そう、こんな風に優しく笑う人だった。
「健一様…」
「神名健一。攘夷浪士であった神名厳治の息子です」
「そして陽菜のいとこ、か…」
土方が呟くと山崎は頷く。近藤は腕を組んで瞳をジッと閉じていた。
「神名健一は高杉と手を組みました」
「高杉と?…やっかいだな」
「はい…」
山崎は重い表情で頷く。土方はタバコの煙を吐いた。近藤はゆっくりと目を開いた。その真剣な瞳を土方と山崎はしっかりと見つめる。
「コイツを取り逃がしたのは俺達の落ち度だ。山崎が既に拠点を見付けた。準備ができしだい、明日にも攻める」
土方は頷く。近藤はほう、と息をはいた。
「やっと、だな。正直、いつ陽菜にバレるかと思うとハラハラしていた」
神名健一が陽菜に接触するかもしれない。それを危惧して土方はずっと監察官に陽菜を見張らせていた。
「陽菜は思ってもいないでしょうね。神名健一が実は生きていたなんて…」
あの夜死んだものだと陽菜は思っているに違いない。しかし、偶然にも健一は屋敷の外にいたため死ぬことはなかった。
土方は雨が降っている外の景色を見た。…陽菜は大丈夫だろうか?
雨が激しく叩きつける音が屯所に響く。
「陽菜の奴、何してるんですかねェ?」
「雨宿りでもしているんじゃないでしょうか?」
まだ帰って来ない陽菜に屯所内に不安げな雰囲気が流れた。見張りの吉村がいるからなんともないとは思うがさすがに心配になった土方はスッと立ち上がる。
「近藤さん、俺ァ陽菜を捜して来る」
「ああ、頼む」
その時だった。
襖が開き、そこからずぶ濡れの陽菜が現れた。
「陽菜!」
安堵の雰囲気が流れた。陽菜は俯いたままゆっくりと居間に入る。近藤が嬉しそうに陽菜に近寄る。
「陽菜良かった!心配したんだぞ?このままじゃ風邪ひくよな。風呂はわいている。あったまって来い。いやぁ〜でも本当に……」
とん…
軽い音をたてて陽菜は近藤の胸に飛び込んでいった。はたから見れば陽菜が近藤に抱き着いたように見えただろう。
ポタポタという音が聞こえた。
下を見ると、そこには陽菜の体から滴る水と、赤い何かが畳に染みていた。匂いがする。自分達がよく嗅ぐ匂いだ。それが何なのか理解するのを隊士達の頭は拒否していた。
近藤が後ずさるように動き、そのまま倒れる。
真選組隊士達の目に映った光景は、
腹に短剣を深く刺した近藤と返り血を浴びた陽菜の姿だった。
「局長ォォォオ!!!!」
叫び声をあげて近藤に駆け寄る隊士達。
土方は意味が分からなかった。何だ?何が起こったんだ?
「陽菜…?」
土方は呆然と血まみれの近藤を見つめる陽菜を見た。
陽菜ゆっくりと自分の血まみれの手を見る。体が奮え始める。
「あ…あぁ…」
陽菜の脳裏に駆け巡る近藤の笑顔。温かい手の平。それなのに今、近藤は真っ青な顔で血を流して倒れている。何故?
…私が刺したから。
私が…近藤さんを、殺した?
殺し…た…
「いやああぁぁぁぁぁあああ!!!!!!!!」
揚羽蝶
ヒラリ、ヒラリ。自由に舞う揚羽蝶。
「揚羽蝶ってのは綺麗なものだな」
月夜の光を浴びながらその男は言った。男は腰にさした刀を抜き、一瞬にして揚羽蝶を切り刻ざむ。
「さぁ、宴の始まりだ…」
月夜の下で、左目に包帯を巻いた男は艶やかに笑った。