私はずっと彼の舞台袖にいた。舞台袖からずっと彼を見ていた。舞台へ進む一歩を踏み出すことなく、ずっと、ずっと。
彼と始めて出会ったのは父が切り盛りするうどん屋の店でのこと。常連客である道場主の近藤さんが連れて来られたのだ。
「名前さん!コイツは新しい門下生なんだ!よろしくしてやってくれよ!」
それが土方十四郎さん。整った顔立ち。高くくくられた長い黒髪。細くて鋭い眼差しが少し怖かった。
でもそれは最初だけ。私はすぐに土方さんに恋をした。
彼は近藤さん、総悟くん、それから総悟くんの姉であるミツバさんとよくやって来た。
そして、私は土方さんとミツバさんが互いに想いあっていることを直感的に悟る。
それでもよかった。私はこの想いを土方さんに伝えるつもりなどなかったから。
私は彼が店にやって来るのを待つ。
自分から会いに行ったりなどしない。
私は彼のことを何も知らない。
彼も私のことを何も知らない。
二人っきりで出会ったこともなければ話したこともない。
彼のことが好きでありながら、私はその関係に満足していた。
分かっていたのだ。彼と私とじゃ立っている舞台が違う。彼の舞台に上がり惨めな想いをするぐらいなら私は彼の舞台を袖から見ていたかった。
江戸へ行く。
私にそう言ったのは近藤さんで土方さんは黙ってうどんを食べていた。
「そうですか…。寂しくなりますね」
私は近藤さんと言葉を交わし、土方さんは近藤さんに話しをふられた時に一言二言話すだけ。
「それじゃあ名前さん、お元気で!」
「はい。近藤さんと土方さんも」
おおらかに笑う近藤さん。小さく頭を下げる土方さん。私は笑顔を浮かべ、彼らと別れた。
それ以降、私が彼と会うことはなかった。
彼らが江戸をたった日。ミツバさんが店にやって来た。
「…行っちゃった」
柔らかい笑顔でミツバさんは言う。出したうどんに彼女は手を出さない。
「…置いて行かれたわ。私のことなんて知ったことじゃないんですって」
誰に、とは彼女は言わなかった。彼女は静かに涙を流す。
「ひどい人ですね」
「…いいえ」
その時彼女が浮かべた笑顔は女の私がみとれるほど綺麗だった。
「すごく優しい人なの」
ミツバさんは土方さんの舞台に上がったのだ。そして、彼と二人で恋物語を綴った。
彼女は私が知らない彼を知っている。私が分からない彼の心を知っている。
だから彼女は涙を流す。
私は泣かない。
その時、私は自分の恋が終わっていたことに気が付いた。
私は舞台袖から降り、土方さんの舞台から目を背けた。
舞台へ上がったミツバさんは最期まで土方さんとの恋物語を綴った。
舞台裏でもない。観客席でもない。舞台袖にいた私。一歩を踏み出せばそこは舞台上。
でも、私は最後までその一歩を踏み出さなかった。
いつの間にか恋をして。
いつの間にか恋をやめていた。
…ただ、それだけだった。
彼との思い出などない。ただ、月日だけを彼と共に重ねた。
それだけのこと。
私はひどく臆病な人間だった。
それでも。
彼への想いは恋でした。
それでも。
私にとっては幸せな恋でした。
舞台袖の女優
もし、彼にもう一度だけ会えるのなら。ありがとうと、そう伝えたい。
そんなありもしない夢を抱きながら、私は舞台に上がった。