「ねぇ、いるんでしょ?出て来て下さいな」
鈴を転がすような少女の声音。山崎はため息をつき、天井裏から出てその声の持ち主の前に姿を現した。
「…なんで分かるんですか?」
少女はにっこり笑うだけでその問いに答えない。それはいつものことで、山崎はもう一度ため息をつくのだった。
数日前、山崎は情報収集のため攘夷浪士の家に潜伏した。この手の仕事はよくあることで、山崎には慣れたものだった。だからと言って気を抜いたつもりはない。それなのに、見つかってしまったのだ。この少女に…。
慌てふためく山崎を見て少女はにっこり笑って言った。
『私のお話し相手になって下さらない?そしたらあなたのこと、誰にも言わないわ』
断れるはずもなく、それから山崎は少女の話し相手となるのだった。
「花見をあなたはしたことがあります?」
「あるよ。花見は毎年仲間皆で」
「素敵!楽しそうね」
「素敵…なのかな?皆酒を飲んでばっかで花なんて見てないよ」
「まぁ」
少女が楽しそうにくすくすと笑うので、山崎もつられて微笑んだ。
「私、桜好きです。よく覚えていませんけど…綺麗だったのは覚えています」
この少女はこの部屋から何年も出ていない。だが少女は自分のこの境遇を嘆いたり決してしなかった。ただ「仕方ない」と歳に似合わない大人びた表情で笑うだけだった。
少女には姉がいた。だがその姉は自分の家の中庭にいる時にさらわれ、殺された。大切は娘を失った父親はもう一人の娘も失うことを恐れ、この部屋に閉じ込めた。
父親を悲しませないために、少女は外の世界を望むことを止めた。
「ねぇ、あなたの名前、教えて下さる?」
ほうけていた山崎は少女の顔が間近にあることに驚いた。慌てて顔をそらす。その行動を否定と受け取った少女は頬を膨らませた。
「いじわる」
「………」
今まで何度も名前を聞かれたが山崎は断り続けた。山崎なりのけじめのつもりだ。
「あなたが教えて下さらないなら私も教えません」
そう言っても苦笑するだけの山崎を見て少女は悔しそうに口を結んだ。
「そろそろ帰るよ」
山崎が立ち上がると少女は寂しそうな表情を浮かべる。
「また…来て下さる?」
本当は首を横に振るべきなのだろう。分かっている。分かっているのに…山崎は微笑み頷くのだった。少女は嬉しそうに顔を綻ばせた。
「お待ちしております」
「…うん」
こんなことをいつまでも続けていく訳にはいかない。集めるべく情報はもう十分集めた。
それでも山崎は…
「はい」
いつものように山崎は少女のもとを訪れ、持って来た桜の花がついた枝を渡した。
「これは…」
「桜だよ。好きって言ってたでしょ?」
「桜…」
「うん」
「…綺麗」
内心ハラハラしながらその様子を見ていた山崎だが、嬉しそうに微笑む少女の顔を見て安心した。
「ありがとうございますっ」
「うん」
だが、一瞬曇った少女の顔を山崎は見逃さなかった。
「どうしたの?」
「………」
少女は俯き、ややあって小さく少女は呟く。
「この家を出ておじ様の家に行くことになりました」
山崎は目を見開いた。
「お父様が昨日『お前に迷惑をかける訳にはいかない』っていきなり…」
攘夷浪士として行動するにあたって、自分の娘の身を心配したのだろう。
「もう、あなたと会うことが出来なくなるのですね…」
「…そう、だね」
少女は山崎の腕をすがるように掴む。少女は泣きそうな顔で微笑んだ。
「あのね、私の名前は…」
「言わないで」
山崎は少女の言葉を遮った。二人は見つめ合う。
「君は俺のことを忘れて幸せになって。俺も君のことを忘れるから」
少女はその言葉を聞き傷付いたような顔をした。
「あなたが私からお父様を奪うのに、そのあなたが私に幸せになれと言うの?」
やはり少女は気付いていたのだ。山崎の正体に。
「…うん」
山崎の真っ直ぐな瞳でそう言った。少女の瞳から涙が零れ落ちる。わなわなと唇を震わせ、山崎を見つめた。山崎はそれを黙って受け止めた。
山崎の硬い意志を理解した少女は諦めたかのように微笑み山崎の腕から手を離した。
「さようなら。名前も知らない、私の大好きな人」
名前のない想い
名前も知らないあなたを桜を見るたびに思い出します。