モルジアナと領主の兄
「殺してやる!この不要品が!」

 牢に響くのは罵声と呻き声。支配と服従の音だけだった。叩かれている女奴隷のか細い謝罪の言葉は、鞭の音と主の罵声に掻き消されていた。
 そんな彼女を誰も助けようとしない。救えるはずないのだ、私達に。逆らえば殺されるのだから。

 今思えば、私はまだ"モルジアナ"という名があるだけましだったのかも知れない。ファナリスの血が流れているというだけで主に気に入られたのだ。だが、ただ名前が与えられただけであって、他の奴隷と変わらない扱いを受けてきた。毎日毎日食べ物すらろくに食べさせて貰えなくて、鞭を浴びせられて。強いて言うなら、たまに"餌"にとうもろこしが混ざることがあることくらいだろうか。

 希望なんてものは、とっくの昔に忘れてしまった。

 その日、領主様の機嫌を損ねてしまった私は、罵声と鞭の雨を受けていた。

「このっ!奴隷がっ!僕に指図をするな!」
「……っ、すみませ、ん……」
「謝って済むと思うな!」


 領主様は鞭を手に一際大きく腕を振り上げた。激痛を覚悟して思わず目を固く閉じる。

「……?」

 だが、いくら経っても体に鞭が下りてこない。不思議に思ってうっすら目を開けると、領主様の腕は誰かに掴まれていた。突然のことに領主様も目を見開いていたが、やがてそれは動揺へと変わった。

「久々に来てみれば……酷いね、お前は」

 柔らかな声。だけど領主様に向けられているその視線は冷たかった。男性は領主様の腕を離すと、私に手を差し伸べてくれた。

「大丈夫かい?」
「……は、はい……」

 私なんかが手を借りていいのか迷ったけれど、恐る恐るその手を取った。……とても温かくて柔らかい。人と手を繋ぐなんて何年ぶりだろうか。
 男性は私を起こして領主様に向き直った。

「久しぶりだね、ジャミル。元気だったかい?」
「ど、どうして兄上が此処に……?」
「たまたまチーシャンの近くまで来たからさ。それよりジャミル、お茶でも淹れてくれないかい?」
「わ、わかりました」

 傲慢な態度から一変、領主様は腰を低くして牢から出ていった。領主様が恐れるなんて、この人は一体どういう人なのだろうか。

「ごめんね。あいつ昔はあんな感じの子じゃなかったんだけど」
「……いえ……」
「名乗るのが遅れたね。僕はナマエ。ジャミルの兄なんだ」

澄んだ深緑色の瞳を細める。優しげな笑顔に警戒心が少し緩んだけれど、私の過去の記憶が彼との間に憚った。人を信用してはいけないと。

「君は?」
「……モルジアナ、です」
「モルジアナ、さっきは弟が馬鹿なことをしてごめんね。痛かっただろう?見せてごらんよ」
「い、いえ、大丈夫です」
「いいから」

 遠慮していたけれど、結局ナマエさんに折れて腕を見せた。ナマエさんは私の傷を見て少し眉をひそめると、服のポケットから塗り薬が入ったガラス瓶と清潔な細長い布を取り出した。
 傷口にすっと薬が塗られる。その上からきちんと布を巻いてナマエさんは微笑んだ。

「よし、これで大丈夫。女の子だし傷は残らないようにしないとね」
「……ありがとうございます」
「どういたしまして。あ、そうだ。これ、良かったら食べて」

 差し出されたのは一塊のパンだった。私は思わず目を丸くする。パンなんてもの、外で売っているものしか見たことがない。食べたことのないそれは、柔らかくて香ばしい小麦粉の匂いがした。

「でも……」
「気にしないで。他の人の分も明日買ってくるよ」

 また弟が何かしたら言ってね。ナマエさんはそう言い残して部屋を後にした。
 どうして彼は私に優しくしてくれるのだろうか。私がファナリスだから?利用しようとしているから?……どれも違うような気がする。
 残された私は手に握らされたパンを一口かじってみた。暖かい、太陽のような味がした。



モルジアナと領主の兄


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