桜の香りを乗せた柔らかな風。長い黒髪が艶やかに舞う。剣を手に鍛練をするのは、煌帝国第一皇女、練白瑛であった。 鋭く降り下ろされる剣を受け止めるのは白瑛の従者、青舜。長年付き添っている故に主の癖を見透かしているのであろう、完璧に剣を受け流していた。かすりもしない。白瑛は悔しさに唇を噛んだ。 女性なんだから、もっと自分の身体を大切にして下さい。俺が姉上を守ります。同じことを何度白龍に言われたことか。それでも白瑛が戦場に立つのは、たった一人の家族を守るため。女としての生き方は捨て、将軍として人生を歩むことに決めたのだ。
「生温い鍛練だな。それじゃ手合わせの意味がない」
嘲笑を交えた男の声にはっと意識を現実に戻す。廻廊から中庭に続く短い階段に立つその男は、腕を組んで此方を見据えていた。
「姫様に向かって無礼ですよ、ナマエ殿」 「本当のことだろう。癖が直っていないから青舜に受け止められるんだ」
皇族相手に敬意など一切示さず、ただ淡々と白瑛の悪い所を上げていく。噛みついてくる青舜など気にも留めず、男はずかずかと白瑛に歩み寄ってきた。普段は彼の態度を何とも思わないが、今回ばかりは白瑛も少しむっとした。
「何か御用ですか?お仕事はどうなさったんです?」 「仕事は無い。俺が代わりに手合わせしてやる」
常備している剣を取り出し、ナマエは静かに構えた。青い双眸がきゅっと細くなり、かかって来いと言わんばかりに笑みを含む。何か言いたげな青舜を目線で制し、白瑛も剣を取り出した。 たんっと軽い音を地に打ち付けてナマエに斬りかかる。足、横腹、首……斬れば致命傷になるであろう急所を狙うが、悉く弾き返された。 弾かれた反動で後方へ下がり、一旦間合いを置く。相手の出方を窺っていると、今度はナマエが反撃してきた。 この男、見た目こそ細身だが、繰り出される斬撃は強烈なものだった。決して力んでいるわけではない。一つ一つの動きが無駄なく、力を一部に集中させているのだ。まるで水が上から下へ流れるような剣捌き。流麗な技を受け止めるだけで白瑛は精一杯だった。 一振り、剣を受け止めきれなかった。首に向かって真っ直ぐ振りかざされる刃に思わず目を固く閉じる。だが、いつまで経っても首が斬られる痛みは感じない。恐る恐る目を開くと、それは首元でぴたりと止まっていた。 やはり、彼は凄い。煌で一番優秀な武官と言っても過言ではないだろう。先程までの怒りも忘れて、尊敬の目でナマエを見詰めた。 ……それに引き換え私は、何も成長していない。どうせナマエにも弱いだの学習しろだのと、くどくど説教されるのであろう。自分の無力さに白瑛は拳を固くして俯いた。 ナマエは片手を腰に当て、口を開く。
「まだまだ甘いな。将軍になるんだったらもっと鍛えろ」
予想外の優しげな声にぱっと顔を上げた。そこに普段の厳格な面持ちはなく、青みがかった黒の前髪から柔らかな弧を描く瞳が覗いていた。
何故こんな無礼な男に惚れたのだろうかと疑問に思うこともあるが、その理由は今のナマエを見ればすぐにわかることだった。 今は亡き長兄の影を、ナマエに重ねていたのだ。ずっと憧れていた、厳格で優しい兄。ナマエに対しても同じような感情を抱いていた。憧れや尊敬がいつしか恋に変わり、ナマエに想いを寄せるようになった。 白瑛はふっと笑みを溢し、剣を鞘に戻した。
「ナマエ殿のおっしゃる通りです。私はまだ兵を率いられるような器の人間ではありません。……ですからナマエ殿、どうかまた私に剣の指導をして下さいませんか?」 「……ああ」
ふわり、春風が吹き抜ける。一枚の桜の花弁が舞った。
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