ジャーファルと暗殺少女
 美しい、と思ってしまった。本当はそんなこと、思っている余裕なんてないはずなのに。
 口元こそ布で隠れているものの、間近にある彼女の顔は端麗なものだった。温もりなど微塵にも感じさせないその瞳は、真っ直ぐ私を見据えていて。冷たく刺す視線にさえも、夜に溶ける氷のような美しさが感じられた。

「……助けを、呼ばないの?」

 彼女は低く、無機質な声でそう尋ねてきた。喉元に押し合てられているナイフの刃が、月の光に冷たく照らし出される。
 寝台の上で私の胴を跨ぐ彼女の力は華奢な見た目に反して強く動けない。命の危機が迫ろうとしているのに、口から溢れたのは自分でも驚くほど穏やかな声だった。

「貴女が私を殺したいのならば、殺してもいい。……嘗て私も、貴女と同じことをしていたのだから」
「……それは知ってる。だから私は、貴方を殺しにきた」

 嗚呼、彼女は私と同じ組織の人間なんだ。私が新しい主に組織の秘密をばらさないよう、口封じにきた。そんなところか。

「そうですか……なら、貴女の名前は?」
「……そんなもの、貴方に教えても意味ないでしょう。どうせもうすぐ死ぬのだから」
「ええ、そうですね。ですが最後の望みくらい、聞いてくれてもいいでしょう?」

 彼女は鋭利な瞳を細めた。変な奴、とでも思われているのだろうか。

「……ナマエ。これで満足?」
「ナマエ、か。良い名前ですね」

 命を奪おうとしている相手に、名前など聞いてなぜ私は微笑んでいるのだろうか。その理由は簡単で、かなり自分勝手なものだった。

 ……ナマエは、私に似ている。

 「ナマエ」と優しく声を掛けると、彼女の目が見開かれた。途端にぐっとナイフを近づけられる。ひやり。ナイフの刃が肌に触れた。

「何で……何で貴方は笑っているのよ……!」

 ナイフを握る細い手は、小刻みに震えていた。それが怒りからではなく、また別の感情からきている震えだということは容易に察することが出来た。

「ならば何故、貴女は泣いているのですか?」
「……っ!」

 生暖かい雫がぽたり、またぽたりと、私を見下ろす瞳から落ちてきた。ナマエの震える手を、私は自身の手で包み込んだ。彼女の手は驚くほど冷たかったが、そこには確かに血が通っていた。

「貴女は私と似ている。愛されることを知らず、道具として扱われて。だけど本当は、誰かに愛されたかったのでしょう?」
「そ、そんな……こと……」
「その涙が何よりも証拠です。貴女はまだ人間としての心を失っていない。だけどそのまま生き続ければ、人を殺めるだけの人形になってしまう。それは本当に哀れなことだ」

 からん。ナマエの手からナイフが落ちた。上半身を起こして、零れ落ちる彼女の涙を指で拭ってやる。

「そんな貴女を、私は救ってあげたい。貴女がもしその人生から逃がれたいと手を伸ばすのであれば、私はいつでもその手を取ります」

 嗚咽を漏らし始めたナマエを抱き締める。彼女は抵抗を見せず、すぐに私の胸に身を委ねてくれた。
 やがて、胸元からくぐもった声が漏れてきた。

「……貴方は……」
「ん?」
「貴方は初めて、私の名前を呼んでくれた。今まで呼んで貰ったことがなかったから」
「……そうだったんですか」

 その声色は温かいものに変わっていた。今まで無理して人格を演じてきたんだな、と思うと彼女が可哀想でたまらない。

「ジャーファル……さん?」
「はい、何でしょう」
「本当に……私を救ってくれるの?」
「……ええ。勿論」

 今度は私が救う番だ。嘗てシンが、私にしてくれたように。


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