皇太子妃としての務めも無事に終わり、秋は意気揚々と帰国していた。絨毯での旅は些か疲れるが慣れてしまえば此方のもの。さして変化の訪れない景色にも秋はお得意の魔法で花を添え、退屈な旅もそれなりに楽しんでいた。 帰路も後半に差し掛かり、秋は頬杖をついて寝転びながら眼下に広がる森林を眺めていた。すっと手を動かすと、数枚の木の葉が手元に集まった。そのまま魔力を送り、木の葉に蝶を象らせる。絨毯に同乗していた白雄はひらひらと舞うそれを黙って見ていたが、ふと思い出したように口を開いた。
「秋」 「はい、なんでしょう」
手元で蝶を遊ばせ、寝転んだまま秋は答えた。この蝶、我ながらなかなか上手く出来た。もう少し大きいものでも出来るだろうか。
「お前はあの日、最高司祭と何を話した?」
戸惑いから気が乱れ、集中していた魔力が分散した。木の葉に送られていた魔力も途切れ、蝶を象っていた木の葉もぱらぱらと散っていく。
「な、なんのことでしょう」 「惚けるな。朝っぱらから一人で突っ走って行っただろう」 「そ……それは……」
宙に視線をやりながら秋は思考する。隠さなければならない内容ではなかった。だが、簡単に晒して良いものでもない。 秋はどう答えるべきか迷ったが、結局はえへっと笑顔を取り繕った。
「女の子同士の密談です」 「……」
かなり長めの溜め息と呆れた視線が投げ掛けられた。想定内だ。次に降りかかる言葉は、お前は皇族としての自覚が足りないだとか、俺が聞きたいのはそういうことじゃないだとか……どちらにしろ説教じみたものだろう。いつ怒気を孕んだ声が来ても良いよう寝転びつつ身構えていたが、白雄の口から紡がれたのは意外な言葉だった。
「……まあいい。お前が何を話したのかは煌に着いてからじっくり聞かせて貰う」 「あれ、意外と諦めの……良くもないですね。拷問でもするつもりですか」 「さあな」 「ひ、否定しない!?」
思わず秋は上半身を起こした。うつ伏せだったため海驢のような格好になってしまったがそんなことは気にしていられない。白雄の怪しげな笑みはなんだか現実味を帯びていて、ぞくりと背中が粟立った。 それから手招きをされたので、秋は恐る恐る白雄のそばに寄って座った。胡座をかいている白雄はふっと息を溢し、今後のレーム帝国について話してくれた。 秋が飛び出したあの日から数日後、最高司祭は火薬の件を取り消したらしい。戦争のことも考え直し、近々マグノシュタットとも対談するそうだ。
「対談には煌の人間が仲介として立ち会うことになった。これは白蓮や紅明あたりに行かそうと思っている」 「適任だと思いますよ。白蓮皇子が余計な口挟まなければ、ですけど」
紅明はともかく、白蓮は情に厚い人間だ。余計な口出しをして対談を混乱させるかも知れない。その様子が容易に想像できて、秋は苦笑を浮かべた。
「……それより秋、そろそろ俺の呼び方を変えないか」
再び木の葉の蝶を作ろうとしていた手を止めて、秋は首を傾げた。それからすぐに閃いてぽんと手を打つ。
「呼び方……?ああ、私ずっと『皇子』って呼んでましたもんね。これからは『皇太子殿下』と呼ぶことにします」 「もうすぐ皇帝の座を継ぐと思うんだが」 「でしたら『陛下』」 「……俺が言いたいのはそういうことじゃない」
どうして堅い方に向かうんだ、と我が夫は半眼で突っ込みを入れる。秋は再び首を傾げた。わからんものはわからんのだから仕方ないでしょう。
「今の俺とお前は主従関係じゃない。夫婦なんだ。だから名前で呼べ。なんなら呼び捨てでも良い」 「なんだそういう……いや何言ってんですか無理ですよそんなこと」
結婚してもなお接し方を変えず、正直主従関係であった時と大して差はなかった。周りからも本当に結婚したのかと疑われるくらいだ。 白雄の言う通り、皇帝の位を継いでしまえば今までの呼び方は使えなくなる。しかし今さら呼び方を変えるのもなんだか照れ臭い。
「えー……やっぱり『陛下』じゃ駄目ですか?」 「公の場ならそれで良いが個人の空間では別だろう」 「それは白雄皇子個人の要望であって義務ではないでしょう」 「ならばこれは命令だ。ほら、呼んでみろ」 「……」
うっかり墓穴を掘ってしまった。白雄は楽しそうに笑っている。なんで今日のこの人はこんなに余裕綽々なのだろうか。いつもは振り回されているくせに。なんだか悔しい。
「……白雄、さん」
本当に小さな声でそう呼ぶと、白雄は満足そうに笑って秋の肩を抱き寄せた。額に白雄の吐息がかかって少しこそばゆい。
「お前が照れるとは珍しいな」 「だっ……だって恥ずかしいじゃないですか」 「夫婦らしくて良いと思うが」 「……夫婦、ですか」
白雄の肩に頭を預けながら、秋は前方に目をやる。森林が途絶え、広々とした大地が見えてきた。 故郷まで、あと少し。
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