風が秋の耳元で唸った。煌よりも北にある上、朝だということもあって北天元山高原はかなり冷え込んでいた。そこを馬で駆っているというのだから、肌に触れる空気は刺すような冷たさだった。秋は寒さに食い縛る口を何とか開き、風に掻き消されぬよう、なるべく大きめに声を掛けた。
「白瑛皇女」 「はい、何でしょう」 「なぜ私が此処にいるんでしょうか」
先を駆ける白瑛は黒髪を靡かせ振り返った。にこり、と口元に笑みを含む。
「息抜きですよ。外務続きでお疲れでしょう。黄牙の方々を秋殿にも紹介したいですし」 「お気遣いは嬉しいのですが……護衛をもっと付けるべきなのでは?私だけならともかく、白瑛皇女の大切な御身ですし……」 「ふふ。ご自身より私を心配して下さるなんて。相変わらずお優しいですね、秋殿は」
ちらりと後方に目をやると、白龍と青舜が後に続いて馬を駆っているのが見えた。白瑛は適当に答えをはぐらかしていたが、いくらここが煌の傘下と言えど無用心すぎるのではないだろうか。皇女と皇后と皇子が一人だけお供を付けて外に出るなど聞いたことがない。秋の考えを察したのか白龍が馬のスピードを僅かに上げて秋の隣に並んだ。
「俺と青舜が姉上や秋殿を守れないとでもお思いで?」 「いや、そういうわけでは」 「金属器使いが二人にその眷属が一人、超人的な肉体を誇る皇后が一人いればそれなりの戦力になると思いますがね」 「た、確かに……」 「……それに、貴女に何かあっては一大事ですからね。俺が死ぬ気で守りますよ」
今の白龍に泣き虫な少年の面影はなく、その表情はしっかりした青年そのものだった。おお、成長したなと感嘆しかけたが、青舜の一言によりその感情は打ち消された。
「まぁそうじゃないと白龍皇子が白雄皇子に殺されますもんねー。男なら死ぬ気で女を守れ、と白雄皇子が以前言っておられましたから」 「……あ、なるほど」
……つまり白龍は秋を命懸けで守りたいわけではなく、白雄に叱られるのが怖いだけなのだ。見た目こそ大人びているものの、まだその辺りの考え方は年相応。白龍は決まり悪そうに青舜を睨んだが、そちらのほうが白龍らしいと秋は微笑んだ。
「ほら、見えて来ましたよ!」
白瑛の声に前を向けば、広大な草原に立つ幾つかの天幕が見えた。黄牙独特の風景に秋は胸が弾んだ。馬から降りて柔らかい土に足を着ける。ふわりと草の香りが広がった。 一度来たことがある白瑛と青舜は懐かしそうに眺めていたが、秋と同じく初めてこの地に立つ白龍は興味深そうに見回していた。 外に出ていた村人達は白瑛の姿に頭を下げた。白瑛はこの村で随分信頼されているようで、村の子供達は白瑛様、白瑛様と喜びながら集ってきた。実力行使ではなく、自らの強い志を示して傘下に治める。そのような考え方が出来る白瑛だからこそ、この平和な国を作り上げることが出来たのだ。 一人の男性が白瑛の前で深々と頭を下げた。その男性を見て白瑛はぱっと顔を輝かす。
「まあ、ドルジ殿。お久しぶりですね」 「お久しぶりです白瑛様。ようこそいらっしゃいました。おーい、トーヤ!皆さんを案内してくれ!」
天幕から出てきたのはほんわかとした小柄な女性だった。トーヤと呼ばれたその女性は、秋らを天幕の中へと案内した。 黄牙一族は遊牧民であり、住居も持ち運びが楽なように簡易な造りをしている。木の骨組みに羊の毛で作られた布を被せただけの簡素な住宅だが、防寒に優れており見かけ以上に中は広い。初めて見る伝統住居に秋は目を輝かせて隅から隅まで観察していた。
「うっわぁ、素敵ですね!広いし暖かいし。この座布団の刺繍も綺麗です」 「うふふ、ありがとうございます。宜しければこれをどうぞ。馬乳酒です」
トーヤから差し出されたのは白乳色の酒だった。酒と言っても、馬乳酒はかなり弱いものだ。肉食中心の生活を送る黄牙の人々にとって馬乳酒は野菜代わりであり、食事としても飲まれている。そう白雄から教わった。 秋はトーヤから酒を受け取り、それを口に含んだ。さらりとした口当たりと酸味が広がる。美味しい、と秋が絶賛すると、トーヤは嬉しそうに微笑んだ。 そんな二人を見て、白瑛は頬を緩めた。良かった、随分と楽しそうだ。 特にこれといった目的がない四人は、太陽が傾くまでのんびりと黄牙の村で過ごした。
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