Free! #さようなら先生



どうして変わってしまうのだろう。
僕は着慣れない制服を着て、歩き慣れない道を歩き、身体に纏わり付く不安と期待を連れて、中学校への道のりを歩く。
変わらないのはハルが隣に居る事くらいで、家の中だって、僕が中学生になった事で少しずつ変化している。
例えば、お茶碗が新しくなったりとか、例えば、お風呂に一人で入ったりとか(恥ずかしい話だけど、僕はそれまで必ず誰かと一緒にお風呂に入っていた。)、そんな、些細な事。
学年が変わるのとは違う、大きく変わった環境に僕は戸惑っていた。そういえば凛ちゃんも居ないんだと、寂しくなったりもした。
渚だって、なかなか会う事も難しくなった。毎日顔を合わせていたのに。
でも、ハルは一緒だった。クラスも、帰り道も、一緒。
部活だって一緒。
(ああ、なんだ。僕は大丈夫だ)
宿題が増えたって、科目が増えたって、少しずつ体つきが変わったって。
それと同じように遙も変わってくれる。まるで、合わせて一緒に成長するんだとでも言うように。
だから僕は大丈夫。
…だけど。
月日が流れた。屋外プールでだって平気で泳げるようになって、部活に励んで、大会に出て。
少しずつ気温と水温が下がっていく。ハルは少しつまらなそうに、少しずつ落ち葉が青を浸食していくのを眺めていた。
…そして、年が明けた。
僕はその日は妹弟と遊んでいて、ハルが何をしていたのかは知らない。
その日ハルと凛が、お互いを傷つけてしまった事も、知らない。
次の日ハルは僕の家に来た。ふらふらと覚束ない足取りで、何かにおびえるような顔で。
今思えばきっと、ハルは俺自身をも傷つけるんじゃないかって、恐れていたんだろ?
そして、縋るように僕を抱きしめた。
あまりにも弱々しくて、抱きしめ返したら壊れてしまうような気がして。
僕はあまりにも無力だった。


「ハルちゃん…っ!ハルちゃん!なんで、なんで水泳部、やめちゃったの?!」
冷たい、突き刺すような風と、ハルの顔、あの日から少しずつ募っていた不安は、最悪の形で僕の前に現れた。
あのハルが、泳ぐ事から逃げるように、競泳をあっさりと捨てた。
ハルは面倒くさそうに「ちゃん付けするな」といってぷいっと顔を逸らした。
ああ、ついにハルまで変わってしまった。
一緒に変わっていっていた筈のハルまで、僕を置き去りにして、進んでしまう。
僕は焦っていた。
ハルまで、僕の知らない何かに変わってしまう。なぜかそう確信し、その場から走って逃げた。
ハルちゃん、どうして…?
少しずつ狂った歯車は、更に拍車をかけて崩壊の道を辿ってしまう。
誰にも言えなかった。ハルちゃんのことは、僕が一番知っていると豪語していたから、情けなくて。
ああ、あの優しい漁師のおじさんが、今も居てくれたら。
真っ先に相談できたのに。
「ハルちゃん…どうして…?どうして…置いていくの?みんな、僕を置いて、いっちゃうの?」
少しずつ、少しずつ、心の中に滲む不安に、瞳はたくさんの水を含み、揺れる。水面みたいに、揺れている。
僕の心もこんな風に揺れているんだろうか?
「…ちばな…たちばな…!」
自分を腕でぎゅっと抱きしめしゃがみ込んでいた僕を、見つけてくれたのは体育の先生だった。
僕は思わず泣き出して、先生の胸に飛び込んだ。
わんわん泣き出した僕に、先生はずっと何も言わずに優しく頭をなでてくれた。
先生は、困ったような、悲しいような、僕の心を写したような表情だった。
(こうすればよかったのかな…そしたらハルちゃんは、一人で悲しまなかったのかな)
悲しいのを、共有できたらよかったのに。
僕とハルちゃんなら出来るきがしていた僕は、…あまりにも子供だった。
「…橘、お前は優しいから、自分はいつでも二の次で、他人を優先しすぎてる。…それは、必ずしもいい事じゃないんだぞ?」
どのくらい経ったか、僕は体中の水分をすべて出し切ったくらいに泣いて、泣いて、少し眠たい頭で先生の話を聞いていた。
こんなに優しく抱きしめてもらったのは、いつぶりだろう。
ハルが抱きついてきた時は、こうじゃなかった。
きっと、相手の心が、そのまま現れているんだと思った。そしてそれは、多分間違いではない。
先生はきっと、俺の悲しみを半分背負ってくれているんだ。そしてあの日僕はきっと、ハルの悲しみを背負ってあげなくちゃいけなかったんだ。
「…でも、せんせいが、人には優しくしなさいって…お母さんも、お父さんも。」
みんなみんな言うじゃないか。人の事を思って行動しなさいって。
それに、それは僕にとても合っていたんだ。やっぱり、みんなには笑ってほしい。特に、ハルには。
「でも、橘が悲しいと、俺も悲しい。人は人を映す鏡なんだ。お前が笑わないと、先生も笑えない。今だってそうだろ?」
パズルのピースのように、綺麗にその言葉は僕の心にはまった。
そういえばそうかもしれない。僕が笑うと、たいていみんな笑ってくれた。ハルは笑ってくれなかったけど、僕が悲しそうにしていると、ハルも、みんなも、悲しそうだった。
「僕、ハルちゃんに笑ってほしい。ハルが悲しいと、僕も悲しい…せんせい、どうしたらいいの?」
「俺は七瀬じゃないから、本当の七瀬の気持ちは分からない。…けど、橘、お前が居ると七瀬は少し嬉しそうなんだぞ?逆に、お前が居ないと、つまらなそうなんだ」
七瀬には言うなよ、と先生は笑った。
そっか、僕はハルちゃんのそばに居ていいんだ。
「ありがとうせんせい!僕、ハルちゃんのそばに居る!」
「おう!いつか必ず七瀬に伝わるぞ!頑張れ、真琴!」
むずがゆさを孕んだ不思議な気持ちのまま、少し足取り軽く僕はハルの家に向かった。
僕はそれからハルと一緒にいる時間を少しずつ増やしていった。
「まこちゃんは本当に遙が好きね。おばさん、嬉しいわ。これならわたしがお父さんのところについていっても大丈夫かしら」
なんて、冗談めいた事を言っていた。僕は嬉しくなった。だって、おばさんも笑ってくれたから。
でも、ハルの氷はなかなか溶けなかった。
水が好きなのは変わらなくて、SCがなくなってからは水風呂に長時間浸かったり、毎日のように海に行ったりしていた。
気がつけば季節が変わっていた。
「お、真琴。また来たのか。どーした、何かあったか?」
少しでも心が落ち着かなくなると先生のところに足が向いていた。
泣きそうになる事はたくさんあっても、僕は先生の前以外では泣かなくなっていた。
強くなったね、と母さんは笑っていた。別に昔から涙もろい方ではなかったけれど。
「真琴は泣き虫だな。」
いつしか定着してしまった呼び名に、思わずドキリとすることももうなかったけれど、それじゃないドキドキが、時折僕を襲っていた。
(もっと、なでてほしい)
そんな思いが僕を燻り始めたのだ。
「先生に対してだけだもん」
そう、こんなに甘えるのは、先生にだけだった。
いつもは敬語を使うし、こんなにすり寄らない。端から見たら相当異常だっただろう。
だから僕らはいつしか密会のような形で落ち合うようになっていった。
今日はハルちゃんが少し笑ってくれた。
今日は少し怒ってた。
今日は僕のうちに遊びにくるんだって。
先生はつまらないだろうに僕の話を真剣に聞いてくれた。そして頭をなでてくれるのだ。
僕はそれが大好きだった。
…違う、俺は先生が大好きだった。
時はすぎて、一人称が僕から俺に変わり、身体も大きくなって、先生と並ぶくらいになった。
ちょうどその時期から、俺をなでる先生の手に、戸惑いが生まれた気がした。
「おっきくなったな、真琴。もう、俺を追い越しそうだ。…子供の成長は早いな」
そういって笑った先生は少し寂しそうで、やっぱり俺もつられて寂しくなった。
それでも密会は続いていた。少しずつ、異常さを孕んでいる事には、多分お互い気付かないフリをしていた。



「真琴は好きな奴はいないのか?」
ちゃかすように先生は聞いてきたけど、俺は答えられなかった。
先生と、ハルが好きだなんて、言えなかった。
そういったら、意味が違うだろ、と笑われると分かっていたし、気まずくなるのは目に見えていたから。
それを思うと少し泣いた。
俺は本当に二人が大好きだった。
太陽のような先生の笑顔も、ぶっきらぼうな優しさをくれるハルも。
でも、どちらも、俺に選ぶ権利なんてないし、選ばれる事もない。
そう思うと、遣る瀬なかった。


そしてある日俺の中の歯車は完全に崩壊する。
「じゃ、じゃあ、考えておいてっ!」
逃げるように去っていった人物を、俺は目で追った。追いかけはしなかった。
…告白、だったのだろうか。
でも、俺は、男。あっちも、男…?
ぱきりと、何かが壊れた。
そっか、俺も選ぶ立場にいるのか。俺が拒絶したら、彼はどうなるのだろう。
俺のように、泣くだろうか。…俺だったら、泣く、かな。
『橘は優しすぎるから』
先生に言われた言葉が浮かびはしたが、俺はあえて噛み潰した。そんな言葉は、聞きたくなかった。
「えっ!?ホントに?!いいの?俺なんかで!」
信じられないと言った顔で俺を見た後、彼は満面の笑みを見せてくれた。
ああ、先生と同じだ。きっと、この人だって、優しい。
ほっこりと気持ちが和んでいく。きっと、間違っていない。そう、思った。
「もちろん。こっちこそ、俺なんかでいいの?」
俺は浅はかな人間だったのだ。先生は間違ってなど居なかった。

「や、やぁ…っ!やだ、い、やっ!」
痛い、痛い。心も身体も引きちぎられる、そんな痛みだった。
何日も引きずるような痛み。それが癒えないままに性欲を持て余した少年は俺を掻き抱いた。
毎日繰り返される行為。そんな中で乖離するかのように身体は悦びを覚えていくのだ。
俺に残ったのは絶望を抱く心とは裏腹な浅ましい身体だった。
そこに愛などなかったのだ。はじめから。
俺はいつかのように身体を抱いて蹲っていた。もう涙はこぼれ落ちる寸前で、身体は痛みと快感に振り回され震えていた。誰か助けて、誰か。せんせい。助けて、ああでも、見ないで。こんな愚かな俺を見ないで。
矛盾した思いが溢れた。でもやっぱり助けてほしかった。先生、せんせい、せんせい。
「真琴…?!どうした、真琴、真琴!」
先生だ、先生…。
情けなく震えていた身体を強く抱きしめられ、俺の涙腺はいよいよおかしくなったようでぼろぼろと泣いた。
嗚咽も止まらずとにかく縋るように泣いて、泣いて、泣いた。
先生は俺の身体をぎゅうっと抱き続けてくれて、心が悲鳴を上げたんだ。
こんなに好きなのに、届かない。
もう、なにも、与えられない、と喚いた。
先生にも見えた筈だ、俺の身体の至る所に散った、鬱血の後を。
「…落ち着いたか?」
「うん…」
俺はもう顔も上げられない。見せる顔がない。
「お前、何があった?無理矢理されたのか?」
ああ、言えない。自分でまいた種なのだ。言える訳がない。
無理矢理の方がまだよかった。完全に被害者なら、まだ…。
だが、現実は違うのだ。俺と彼は付き合っていたんだから。強姦ではないのだ。
俺はふるふると首を振った。やっぱり先生の顔は見れなかった。
きっと、引かれる。嫌われる。それは俺にとって犯されたという事実よりも重かった。
「そうか…真琴、お前、覚えてるか?」
先生は宥めるように俺に問いかけた。優しい。俺は海のように寛大という言葉が好きではなかったが、それがぴったりだと思った。聖職者になるべくしてなったとはこの事なんだろう。と、何の気なしに思った。
先生からもらった事はたくさんあった。ありすぎて何の事を言っているのか分からなかったくらいには、たくさんあった。
思案するように黙り込んだ俺に、先生はため息を吐き、
「お前は優しいって、言ったろ?それはいい事だし、伸ばすべき長所だ。でも長所は短所にもなりうるんだぞ?」
自分を犠牲にするのと、優しいのは違う。と、諭すように先生は言った。その声は震えていて、やっぱり、抱き合った事によって半分こしてくれているのだろうか、と思った。
「お前は選んでいいんだ。お前の事だからそいつが悲しむところを見たくない、なんて思っただろうが、お前が悲しむ事を厭わない奴にまで情を注ぐ事はないんだ」
ぽたりと雫が肩に落ちてきた。
弾かれるように顔を上げると、見た事のない顔で先生は泣いていた。
「俺は真琴が、大事だから、傷つけたくないから、といって優しさを振りまくのは、お前自身がすり減らしてまでしてるって知ってるんだ…っ!だから、もう、やめろっ!やめてくれ…俺だってお前が大切なんだ…だから…駄目だ…お前はもっとわがままでいい、選んでいいんだ!お前の為だけに行動したっていいんだ!」
あの日の立場が逆転したかのように、わんわん泣く先生の、気がついたら俺よりも小さくなっていた身体を抱きしめて、頭をなでていた。
先生、先生…好きだよ…大好きだよ…と、声にならないままに何度も何度も告げたけど、多分一生伝わらないんだろうな、と、諦める事にして、その感情に蓋をして、鍵まで掛けた。



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