梅雨は湿気が多くて髪がまとまらないから嫌いです。何気なく呟きながら、道場の外に意識を向けるふりをしていると、僕に嫌味なんて大した度胸だねと梓先輩がからかった。とんだ被害妄想だと思ったけれど、どう切り返しても先輩の機嫌を損ねるだけのような気がして発言は憚られる。
二人きりの弓道場に水滴が屋根を叩く音が響いていて、まるで水の中にいるみたいだ。二人きりというとなんだか色っぽい雰囲気に感じるけれど、現実と理想はまるで掛け離れていて、わたしはいつもその落差に溜息を吐きたくなる。

「……梓先輩、今日はもう帰ります?」
「こうなったら練習どころじゃなさそうだしね」

先輩の言葉を聞き取って、直ぐに片付けを始める。道場の中に泥が撥ねてしまっては大変だ。たまたま梓先輩と自主練習が重なったという幸運に喜んだのも束の間、天気予報にない土砂降りが襲ってくるだなんて夢にも思わなかった。今日は厄日だ。
己の不幸を嘆きながら丁寧に雑巾で乾拭きをしていると、梓先輩が独り言のように呟いた。

「僕は梅雨が一番好きだよ」

人に忌まれる季節であることは間違いないはずなのに、微笑みながらそんなことを言う梓先輩がおかしくて聞き返すと、先輩はわたしの態度など端から気にしていないかのように肯定した。
残響のように頭に残ってしまったその台詞の意味を問うべきか悩む。先輩の言葉には、精神的な理由が含まれているように思えてわたしの踏み込んでいい領域なのかどうか考えあぐねたからだ。
よっぽどわたしが不思議そうな顔をしていたのだろう、梓先輩は噴き出すように笑い声をあげて、「別に、そんなに深く考えなくてもいいんじゃないの?」と楽しげに言った。

「だって、気になりますよ。梅雨が好きな人なんて初めて聞きました」

むっとしながらもそう答えると、先輩はそういうものかと今度は神妙そいな顔をして謝った。梓先輩の瞳がきらっと輝いて、心臓がドキリと悲鳴をあげた。

「……梅雨が好きっていうよりもさ、僕は春が嫌いなんだよ」

先輩の切なそうな視線がわたしの身体を通り過ぎて遠くを見つめる。ああ、聞かなければよかった。途端にわたしの頭には後悔という二文字でいっぱいになってしまう。
こういうときの梓先輩が考えていることを知っている。先輩に好きな人がいることは、出会ってすぐに気が付いていた。昨年までこの学校の弓道部にいた、夜久月子先輩。少女のように笑う、心の内の美しさまで滲み出ているような綺麗な人だ。
私自身も、月子先輩には本当に色々なことを教えてもらった。わたしに弓道を教えてくれたのも、男だらけの学校で生活していく術を教えてくれたのも月子先輩だった。こんなに汚い気持ちまで教えてくれなくても良かったのに。思いながら、梓先輩にかける言葉を探した。

「春が嫌いな人も、珍しいですよ」

月子先輩は、この春に卒業していった。長く美しい髪の毛に絡む桜の花弁があまりにも似合っていて涙さえ止まったのを覚えている。梓先輩も、思い出しているのだろうか。
梓先輩の目を見ることが出来なくて、雑巾を握っている手を賢明に動かした。先輩はとても鋭い人だから、きっとわたしの気持ちなんて見抜かれてしまう。いや、もしかしてもう気付かれていて、だからこそこの人はわたしにこういう仕打ちをするのかもしれない。酷い人だ。最初から分かっていたのに、それでもこんなに酷い人を好きになってしまった。わたしは頭が悪いのかもしれない。

「きっと、すぐに君にも分かるよ」

梓先輩が笑う。言葉の意味なんて聞かなくても分かる。だってわたしはたった今、こんなにも春の訪れを恐れている。