炭酸水に溶ける七の月

 みーんみーん、と、ここぞとばかりに蝉が鳴く。何の種類の蝉なのだろうか。その鳴き声を耳にしても、わたしよりもちいさい彼等のいのちはとても儚く脆いものであるから、喧しいというよりも切なく胸に響き渡る。同時に、長い間、つめたくて暗い土の中にいたからきっと、際限の無い澄んだ青空の下で鳴くのが気持ちよくて仕方ないんだね、と思ったの。しかし、この猛暑の中にいると、そんな寛容なこころはやがて、はるかかなたへ飛んでいってしまうのではないか、そう思わずにはいられないほど、暑いひかりの光線が、めらめらと、わたしのあたまを容赦無く刺激する。あつい。白恋中がこの先にある今日のこの街は、最高で二十五度になると、朝のお天気お姉さんがテレビの前の国民に告げていた。昨夜は、晩秋をにおわせるようなつめたい風が向日葵の黄色い花弁を乗せながらひゅうひゅうと吹いていたというのに、いまはこんなにも暑い。あっつい。日焼け止めクリームを塗ってくるべきだったかもと、今更になって後悔をした。一年中雪に覆われているこの街にも、夏の季節は通り過ぎることなくきちんとやってくるのだ。……そんな今日は、夏休みが始まったということで、ふぶきくんと以前から約束をしていた、小旅行に向かう日だった。がたんごとんと電車に揺られながら、ちょっとだけ遠くの街に行って、いつも見るソレとは異なる、初めての景色たちをこころゆくまで味わう。堪能する。わたしたちの目的は、たったそれだけで。あそこで遊びたいだとか、ここでコレが欲しいだとか、そういったおおきな野望は特になく、ただ、自分の傍らに大好きなふぶきくんの存在があって、あなたとふたりで時間の共有をしている、その事実さえあれば、わたしは何処へでも幸せになれる気がした。ああ、ふぶきくんも、わたしとおんなじようなことを思ってたら、もっとしあわせになれるのにな……。彼のことを想い、胸の奥がきゅううとちいさく鳴ったところで、切符を買いに並んでくれていたふぶきくんが、蝉の声を遮りながらわたしを呼ぶ。

「紺子ー…待たせてごめ…あっ、おわっ!」

「……え?」

彼に名前を呼ばれてすぐに振り返る、なんかへんな声もしたなあと不思議に思った刹那、ぷしゃああっ!と、わたしの顔にひんやりとした……というか、勢いよすぎて寧ろ痛さのような感覚が拡がった。「わぷっ!?」と、今度はわたしまでへんな声を出してしまい、目に染みたその液体を指でごしごしと擦りながら瞳を開ければ。目の前には“やってしまった!”と、言わんばかりに、目を見張り、たらりと冷や汗をかいているふぶきくんの姿。どちらかというと、いつもこころに余裕を持っている奥ゆかしい物腰の彼が、こんな表情をわたしに晒すのは、とても珍しい。頭が上手く作動してくれず、一体何が起きたのか、理解出来なかったわたしは、ぱちぱちと目を瞬かせて、それから、はたと気が付いた。

「……た、炭酸?」
「ご、ごめんっ!ぼく、紺子にあげるつもりが……」

そう言って、ふぶきくんはすぐに鞄からタオルハンカチを取り出すと、わたしの髪とほおに、飛沫のようにして散らばった炭酸をあわてふためきながらも、やさしく拭う。そして彼の、もう片方の手に持たれている紙コップに入っているソレは、何のへんてつもない炭酸ドリンク。だけど、わたしが好んでいるメーカーのものだった。それをふぶきくんは買ってきてくれて、だけど渡す前にこんな状況を招いてしまったのは、彼の足元に落ちている空き缶が原因だろう……それに躓いたことにより、転びはしなかったものの、前のめりになって、真っ直ぐだった紙コップの行く先が、背の低いわたしの顔へと向かい、吹っ掛かってしまったわけなのだ。でも、いい。ぜんぜん、いいよ。ふぶきくんがあまりにもきれいに眉を下げて、ごめんごめんね紺子、と、謝るものだから、怒る気なんてさらさらない。それよりも。わたしはふぶきくんの笑った顔が大好きだから、早くいつもの笑顔を見せてほしいと思った。べたべたとからだに張り付く炭酸が、初夏の風に晒されて、妙な爽快感を煽ってゆく。

「今日はあっついね」
「わたしはすごく涼しいよ」
「ぼくのおかげだね」

「うん、ふぶきくんのおかげだよ」

先程までの焦燥感は何処へやらというほど、ふふっと笑う彼に切符を渡される。そこには出発時刻も記載されてあり、駅にそそり立つ時計を見遣れば、まだあと三十分もあった。朝には遅く、昼にはまだ早いこの時刻、燦燦と降り注ぐまあるい太陽が、瑞瑞しい緑に色付く樹の葉を乾かし、時折、やさしさを携えながら吹いてくれる夏風によって起こる葉擦れが、心地好い。遠くの森も、家も、白恋への道も、天上から降り注ぐ黄金色(きんいろ)を被り、きらきら輝いて、いた。


「紺子、甘いにおいがする」


ぱたぱた。炭酸水を含んだ、この日の為にと購入したばかりのTシャツの襟元をはためかしていると、隣からはそんな声がすべりおちてくる。服がからだに、ねっちょりと引っ付く感覚とは比べものにならないほどの夏風がひゅるりと、今度はわたしとふぶきくんのほおをいたずらに撫でてゆく。小旅行にいく、ということで、当然鞄の中には着替えが入っているのだけど、さすがにいまこんなところで、しかもふぶきくんの前で着替えるわけにはいかないから、当分は、この甘ったるいにおいと対峙しなくちゃいけないんだなあと、ぱたぱたを繰り返しながらわたしは返事をした。

「それは、ふぶきくんが炭酸かけるからだよ……」
「おいしそう」

「へ?……っわわ!」

そう言って、彼は何を思ったのか、炭酸でべたべたになったわたしの腕を躊躇うことなく引っ張る。そうされたことにより、ぱたぱたは強制的に終了させられ、彼に言われたことばの意味も理解出来ないまま、次の瞬間には、炭酸の残滓が仄かについているほおにキスをされ、最後にぺろりと唇をなめられた。途端に、からだじゅうに太陽の熱が入り込んで勢いよく流れ廻るような、高温の感覚に支配される。どきんどきん、と、心臓がおおきな音を立てた。ふぶきくんの耳にまで聴こえてしまうどころか、薄いTシャツ越しを突き破って飛び出てくるんじゃないかってほどに。うわあああ!は、はずかしい!恥ずかしすぎる!羞恥に呑まれかけた一心で顔を覆ってしまいたくもなったけれど、もう手遅れ。唇にふれた舌先の甘ったるい余韻に完璧に浮かされ、もういちどふれあえるほど間近でほほえんだあなたの顔は、それはもう、のぼせてしまいそうなほど魅力的だった。


嗚呼、
溶けそうだ。