それは優しいある日の事でした

北の大地の5月はまだ寒々としていた。冬より幾らかマシになったとは言え、吹きすさぶ風の冷たさは変わらない。だがそんな紺子達の地元にもきちんと初夏と言うのは訪れていて、季節の変化に敏感な彼女は勿論、それを肌で感じ取っていた。照り付ける陽射しは、どんなに風が強かろうと優しく温かく自分達に降り注いでいる。それだけでじゅうぶん、紺子にとっての初夏はたしかに訪れているのだ。いっぱいに空気を吸い込む。澄んでいて爽やかな、清らかさを持った空気が彼女の肺を満たした。
紺子は幼少時から極寒の北海道で暮らしているせいか、この初夏の季節が好きだった。寒さが少し和らいできて、かつ暑すぎない。キンキンに手や足が凍えてしまう事もなく、動くのも億劫になってしまう程の暑さにうんざりする事もない。そういう意味では秋も好ましい部類なのだが、徐々に葉が枯れてしまう季節よりも、活力に満ちあふれる新緑達がいっぱいに枝を彩る季節の方が尚良い。紺子が初夏を好む理由はそんなものだった。今日も、視界を少し遠くに遣れば緑の木々がうつくしく広がる景色が一望出来る。――今現在紺子がいるのは、街の高台にある公園だった。広大な敷地面積を誇り、沢山の生物が生息しているらしいこの公園に主に訪れるのは家族連れの人々やお年寄り、そしてほとんどの理由がハイキングなどの行楽事である。紺子も勿論、今日自宅から離れたこの場所に足を運んだ理由は似たようなものだ。普段の忙しさを癒すというために、そして何より愛おしい恋人とのピクニックを楽しむためである。

「ねえ、紺子ちゃん」
「なんだ?吹雪くん」

視線をもう一度下にすれば、少し柔らかい彼の銀髪が風に気持ち良さそうに揺れていた。そう、今紺子の膝でうつらうつらとしているのは、彼女の恋人である吹雪士郎だ。吹雪も紺子もこうして出掛けるのは本当に久しぶりであった。共に白恋中サッカー部に所属しているふたりは中々に忙しくデートなどの時間も取りづらいのだが、今日は珍しく久々の休暇が取れたので、わざわざ遠出して気に入りの公園にやってきたのだった。
紺子の膝の上でくつろいでいる吹雪は、数え切れない程の女性を虜にしてきたその甘い眼差しを一心に紺子へ向ける。男性にしては長い睫毛が、はらりと零れてしまいそうだった。吹雪は勿体振って言葉を置いたあと、しばらくして淡い微笑みを浮かべ噛み締めるように言葉を紡ぎだす。

「僕はね、今とっても幸せなんだ」

それを聞いた紺子は、思わずくすりと笑みをこぼした。

「ふふ、知ってるべ」
「…なーんだ」
「ん?」
「驚くか、なんかリアクションしてくれるかと思ったのに」

先程まで眠たげに「膝枕して」なんて持ち掛けてきていたのに、いきなり口を開いたと思ったらこんな事か、と、紺子は苦笑しながら思う。そんなこと、とっくに分かりきっているに決まってるではないか。――自分も同じ感情を抱いているのだから。

「だって、私も幸せだから」
「…紺子ちゃん」
「いちいち口に出さなくても分かってるべ?」
「む、…それでも、口にする事に意味があるんだと思うんだけどなあ…」
「へへ、そうかなぁ?」

紺子は吹雪から視線を離した。暖かい光に包まれた、柔らかな緑色の世界が変わらず広がっている。目を細めると木々がぼやけて、視界の中は緑と空の透き通った色とが混じったパレットのようだ。紺子は、永遠にこの季節が続いたらどんなに良いだろう、と、そんな取り留めもない空想に耽る。永遠に初夏の季節であれば、こうして緑に囲まれながら吹雪と一緒にのんびりと過ごせるのに。暖かい光を浴び、時折特に意味のない囁きを交わしながら、二人きりで。
しかしそんな想像も、しばらくすれば遠くから聞こえてきた子供達の元気な笑い声にぱっと掻き消されてしまう。はっとなる意識と、同時に感じる小さな衝撃。ぱしんと軽い音が紺子の眼下で響いた。とってくれませんか、なんて言う別の子供の声が耳に届き、違和感を感じた紺子が下で寝転んでいる吹雪を見遣ると、そこにはカラフルなフリスビーをちょうど顔の真ん中にくっつけた彼がいて、彼女は思わず吹き出してしまう。笑われた吹雪はその整った顔を困ったように歪めながら、それでも笑顔で立ち上がり、子供達にフリスビーを投げ返した。そんな彼の顔は衝撃から見事に赤くなっていて。紺子は耐え切れなくなり、らしくもなくその場所で思い切り笑い出す。振り返った吹雪の顔は先程よりも不満そうになっているが、構わなかった。たまには完璧じゃない彼を拝むのも悪くない。永遠に紺子の好きな季節が続く事はないように、これから先吹雪が常に甘い笑顔を浮かべていられる事はないのだから。こんな表情でさえも楽しめなくては損というものだ。確かに少しだけ惜しい気持ちもあるけれど、紺子はいつまでも気持ち良い初夏に思いを馳せながら、暑い夏を越え、枯れゆく葉を見つめ、そして冬を吹き飛ばすように、きっとこれからも今までと変わらず毎日を過ごしてゆく。もちろんその中で、自分がいつまでも吹雪の隣にいられるようにとこっそり願いながら。とりあえず今日これからは、爆笑された事を根に持って拗ねるであろう吹雪を宥める事に専念しよう。素直な彼のことだからすぐに機嫌は直るだろうけど、それでも案外甘えたがりな彼は紺子に構われる事自体が嬉しいのだと彼女は知っている。そして吹雪が再び笑顔になった時には、きっと二人の間には優しい沈黙が訪れるだろう。そのあとは初夏の暖かさを満喫しつつ手を繋げたらいいな、なんて紺子は実に温かい気持ちで、心の底から思う。
幾らか暖かくなった五月の風が、二人の間を歌うように翔けていった。