* 16 *



「…ここ、ね」
「いや、あっつい、脱水なるわ」
「ほんとよね…」

 ぜえはあいいながら、私とのばらちゃんは、とある古美術商にやってきた。
 なんでこんなにぜえはあ言っているかっていうと、とてもとても急な階段を上ったうえの、小高いアスファルトの丘の上に、その店があったからだった。

 季節は夏。もうすぐ7月なんてもうしっかり夏やん!!!死んでしまう、ほんと。なんつう任務をよこすんや上は。
 せめて今以外の季節にせえ!!!!

 などと言っても仕方はなく。
 言われたからにはこにゃならんのが我々呪術師というわけである。

 白々しくも階段の下で車みとくから、とか言ってにこやかに手を振った補助監督のことを私は一生忘れまい。

 と、まあそんなこんなで事情は良いとして。
 一息をついて、ようやく。
 息の整った私たちは、とりあえず、というくらいのテンションでその店の扉を開けた。

「こんにちわー」

 かんからん、と、ノスタルジックな鐘が鳴る。
 裏では魔術堂、だなんて言われているだけあって、とてつもなく良い雰囲気をしている。

 薄暗くて、埃っぽくて、胡散臭い。
 こんなところ、人間の皮でできた魔導書なんかがおいてあっても可笑しくないなって感じ。

「見ない顔だな」

 ぶっきらぼうに、店主らしき男の人は言った。
 かけていた眼鏡をずらして、じっとりとした視線をよこしてくる。

「かなりすごい本がある、って聞いてきました!」
「…!」

 そういうと、店主はわずかに、嬉しそうな様な、敵意ではない何かを、目元に浮かべる。

 嬉しい誤算だ。誰かれ構わず見せびらかしたいタイプのコレクターの様だった。



◆◇◆◇◆


「奇書の回収?」

「そう。様々な骨董品屋を渡り歩き、その異様な様相によって曰くという曰くが付きまくっていつの間にか呪物にまで昇華した、奇書中の奇書。
 実際に呪力を帯び始めたような残穢が確認された頃から行方を追っていたんだけど、ようやくありかが分かったんだ」

「成程。奇書…。魔導書、とかいうやつですか?」

「どうなんだろう。そうなんじゃないかな。語られるのはいつもその異様な見た目のことと曰くばかりで、実際の本の内容というのは誰も知らないのかも」

「マジ?ハリボテにもほどがあるわね」

「のばらちゃんは辛辣だなあ。まあでも、それが実際に何かしらの害を与え始める前に回収しちゃおうねってだけの任務だから、等級としてもそんなに高くないよ。
 さっさと終わらしてアイスでも食べて帰ろ」

「アイス!いいですね!私クーリッシュのラムネ味がいい」

「なにそれ!?」

「あるんですよ今年!バニラアイスの風味が全くなくてマジでラムネのフローズンって感じでめちゃくちゃ美味しいんです!」

「マジ???僕もそれにしよ!」

「しましょうしましょう!」

「そうと決まればさっさと行くわよ!」

「わああい!」


◆◇◆◇◆


「この本を見に来たのか」

 そういって、店主は年代物のレジの下から、一冊の本を取り出した。

「……おお、」

 いや、もしやこれは私の予想はあたっていたのかもしれない。
 魔導書っていうからもっとスタンダードな昔風のものがどうせ来ると思っていたけど。

 酷く硬そうな、白っぽい分厚い何かで表紙を装丁した、分厚い本だった。
 店主は、その本を、ほれ、と酷く歪んだ笑みで私に差し出した。

 私も、それを受け取って、まじまじと見る。

 ……ああ、やはりそうだ。

「これは?」
「水神クタアト」
「…こういう装丁だから、ルルイエ異本かとおもったんですが、そうか、それも、そうでしたね」

 茶化すように返す。
 面食らったように、店主は私を見る。

「知ってるのか」
「多分、お父さんとは趣味合うと思うんですよね」
「……とんでもない奴が来たもんだ」

 いやまあこの世界でのはやり事情は知らんけどやな、元の世界では割と爆発的にはやったものだったから、大抵オカルトオタクに関係のない人間でも聞いたことはあるものではあるだろう。

 水神クタアトも、ルルイエ異本も、かのクトゥルフ神話において語られる、架空の魔導書なのだから。

 そして、この色、質感。
 触る限り、どう考えても、この表紙を覆うものは、


「……人間の皮、ですよね、これ」


 する、と再び、表紙を指で撫でる。
 分厚めに皮をはいで、一日も放置すれば、こんな質感になる。
 完全に乾ききって、固くて、ざらついた、人の皮。

「え゛」

 隣ののばらちゃんが、おぞましいものでもみるかのように距離を取った。

「よく分かったな」
「触れば、なんとなく。中を見ても?」
「どうぞ」

 店主は愉快げに手のひらを差し出して、見ろ、をあらわす。

 遠慮なく、開かせてもらうことにした。

「……白紙?」
「ああ、頭から終わりまで、全部”ソレ”だ」
「外側を作って満足したってことですか?それなら、わざわざクタアトを謳わなくても」
「貸してみろ」

 不満げに言った私を窘めるように、店主は人差し指を立てた。
 言われるがままに、本を返す。

 本を手にした店主は、再び頁を開き、そして、


 ――――ばり。


 何のためらいもなく、そのページの一枚を切り離した。
 分厚い、その、ひとページ。

 本自体が分厚いのは、ページ数の割に紙が分厚いからなのだということに、ここで気が付く。

 そうして、店主は器用にその紙の表面をはいだ。
 パイシート。生ハム。湯葉。
 剥ぐものって結構色々あるけど、まさにそんな感じ。しいて言うなら、ただの紙である、ということだろうか。
 非常に気持ちのいい音を立てて、店主は器用に、ページを剥ぎきる。

 もう一度。
 それは、剥いで完全に分離するわけではなかった。
 端、一辺がくっついている。

 要は、そのページたちは複数枚の同じサイズを重ねていたのではなく、大きな一枚を折りたたんであのサイズのページとしていたようなのだ。

 白紙、に見えたその裏側。
 四つ折りになっていたそれを開くと、中にはびっしりと文字や図が書いてある。

 おう、中々リアルで気合入ったつくりやないか。

「凝ってますねえ」
「だろ」
「ちょ、ちょっと。何なのよ?くるる、やけに訳知り顔だけど」
「ああ、ごめん。せやんな。」

 店主と二人だけで盛り上がってしまった。
 これはね、と、のばらちゃんに向かって改めて説明をした。

「これはね、そもそもが偽物。存在するはずのない魔導書だ。
 っていうのもね、このタイトルになっている水神クタアト、っていう魔導書は、あるフィクション作品群の中で語られているだけのものなんよ。」
「フィクションの作品群?」
「そう。何人もの作家が、その世界観を共有して、完全に架空の神話を作り出した。
 この本は、その神話の神にまつわる魔導書を模して造られた、要はファンの凝ったファンアートだね」
「それを当然のように知っている部分がまず訳分からないけど…まあいいわ。要は1から10まで虚構ってことね?」
「中々的確に切り込んでくるなあ。まあ、そういうことや」
「……でも、それにしては」

 気持ち悪そうに、本とページを眺める彼女を見て、思わず笑ってしまった。
 まぁ、確かに、ファンが作っただけのものにしては、実際にこのサイズの人の皮を用いていたり、読める訳でもないのに眺めるだけで悍ましく禍々しい、何かを感じ取れてしまうような内容を書いていたりと常軌を逸する部分はあると思う。

 英語もラテン語もほぼ読めないので分からないけど、多分これも、ちゃんとインクに血を混ぜて、ラテン語で書いているのだろう。

「……キモチワル。見てるだけで鳥肌立つ、なんて久しぶりだわ」
「まぁ確かに、読める訳でもないのに感じるこの異様さは、中々早々出せるもんちゃうでな」
「何も知らない一般人にまでここまでの印象を与える…とは中々本物じみている」

 愉快そうに、店主も言った。
 そらそうだ。
 その異様さから、様々な人間が畏怖を抱き、呪力を帯びるまでになっているのだから。
 そりゃあもう、相当なものだ。

「さて、お父さん。私たちは、これを譲って貰わねばなりません」
「もちろん、無償でね」
「…唐突に、何を言い出すかと思えば。」

 明らかな、嘲笑。
 それは、確かに、私たちが小娘であることに起因する、そういう類のものだった。

 とはいえ、まぁ確かに、私としても自分がいかに身勝手なことをいっているかというのはわかっているつもりである。
 確かに、コレクターのコレクションを見ていきなり、お金も払わずこれをよこせ、なんて言ってもまかり通るわけがないことくらい、流石にいかに世間知らずやゆーたってわかるわな。

「通る、通らないじゃないのよ。ソレはもう、呪物として認定されている。じきにアンタにも害を及ぼすわ。
 さっさと手放した方が身のためよ」

 しかし、ここで強く出られるのが釘崎野薔薇という女。
 くう、姉さんかっけえぜマジで。

「”呪物”?違うさ、これは、”神話”だ」

 愉快そうに、男は言った。
 いやわかってる。だが、そういう事じゃないんだ。

「元が何か、なんて関係ないのよ。それはもう、たくさんの負のエネルギーを纏って、人間にとって良くないものになっているの」
「……ふはは、そうか。だとしたらさぞ素敵な展開じゃないか!
 架空のフィクション神話を題材に作られたただの制作物が、長い時間とたくさんの人の手を経て、本当に人知を超えた力を得ている!それこそ!何よりも”神話”にふさわしい!」

 はっはっは!と、男は心の底から楽しそうに笑っていた。
 まぁ、確かに、気持ちはわかるさ。同じオカルトマニアとしては。
 呪物、だなんて言われたって喜ばしいだけだ。本物の呪力の篭ったオブジェクトが今この手にある、と言われたって、テンションが上がるだけだ。
 あってみたかった芸能人を、初めて生で見たような感覚にしかならない。わかるけれども。

「っだああ!面倒ね!!!よこせっつってんのよ!!!!」

 さてここで、流石の(?)のばらちゃんの堪忍袋の緒も切れるというもの。
 セリフ通り面倒になったらしい彼女は当然のように男の胸倉につかみかかった。

「あらいあらい」

 笑いながらも、一応のばらちゃんをなだめる。

「まぁ、あの、流石にそれじゃ通らんことくらいわかっとったんで、一応、お金、用意はあります」

 そういって、私は黒いクレジットカードを出す。
 もちろん、自前のものではない。高専がこういう時のために経費として使っているカードだ。

「いくらですか」

 男は、逡巡した。

「……120」
「120。後悔ありませんね?」

 売りたくないが故に吹っ掛けてきていることは明白だった。
 まあこの界隈の品物レートがどれくらいか私にはとんと検討が付かなかったが、その、白々しい言い方から、おそらく相当、盛っている。

「い、いや、待て」

 強気で言った私にひるんだのか、男は言葉を撤回した。
 120万か。今回事前に許可得られてる金額の上限は50であるが、120くらいなら高専の人たちは金銭感覚がおかしいので、さらっと出してくれそうである。
 とはいえ。この男をボコすのと、ひゃくにじゅうまん。前者の方がコストが安く済むように思えてしまうのは、既に私も立派な野蛮人になってしまったという事だろうか。

「300!300だ」
「ん〜〜〜〜300かあ」

 ちら、とのばらちゃんを見上げる。
 彼女の言いたいことは、おそらく、私と完全に、同じ。

「300ね。払えるか払えないかはともかくとして、そんな大枚はたくくらいなら、今、ここで、アンタをぶちのめして奪っていく方がよっぽど安く済みそうね」

 取り出した金づちを、ぐっと握って、彼女は男に見えるように軽く掲げて見せた。
 当然、ひるむ、男。

 ボコさんまでも、強奪して逃走、というのでも問題ないような気がするが。
 結局高専、行政とかにもがっつり食い込んでいるみたいだから、それくらいなら結局このおじさんが何を言ったところで警察は黙殺しそうである。

「ま、待ってくれ!!!!売る、120で良い、売るから!」
「120ねえ。私たち、許されてるの50なのよねえ」

 急に強気である。
 のばらちゃんはそういって、首をこきこきと鳴らす。

「50?!流石にそれは」
「ええ?」
「ひい!」
「待って、待って待って。一応、上に確認取りましょうか。120ね。120、許可出たら、今すぐ私たちに渡してくださいよ」
「……わ、わかった」

 おじさんが本をもって逃走しないようにのばらちゃんに見張ってもらって、私はしかるべきところに電話をした。
 この辺の経理周りのことは補助監督のトップの人が管理しているそうなので、その窓口用の電話番号だ。

「〜〜〜〜という事でございまして」
『あぁ、まぁ、それならそれでもかまわないですよ』
「あっ、は〜〜〜い。かしこまりました、ありがとうございますう」

 要件は秒で済んだ。
 当然のように、やはり許可は下りた。

「良いらしいですよ、120。ほら、機械出してくださいよ」
「いや、それがその、」

 急に、口ごもるおじさん。
 なによ、とのばらちゃんがすごむ。

「クレカ、うち、使えないんだよ」
「はぁ?!!何今更!嘘ついてんじゃないわよ!!!」
「こんな片田舎の、趣味でやってるような骨董品屋で使える訳ないだろ!!!!!」
「縄文時代にでも生きてんのか!!!!」
「いやマジで?それは予想外やったわ」

 クレカ不可ですか。ってことは電子マネーなんてもっての他だしな……?オール現金取引…?!

「現金で、120。そればかりはどうしようもない」
「…………クッソ、してやられたわ」
「出直すしかなさそうやなあ」
「まぁでも、覚えたわ。念のために爪、一枚よこせ」
「えっ」
「持ち逃げしたら死ぬ呪いかけてやる。ほら剥げ」
「えっ…?!?!」
「のばらちゃん、痛い痛い。流石にそれはかわいそう」
「じゃあ皮はぐ?」
「人の皮の本にひるんでた人の発言とは思えへんのやが」
「それとこれとは別でしょ。悪趣味は悪趣味よ」
「まぁそれはそうですけれども……。」
「まぁ髪でいいわ。ハサミ、あるでしょハサミくらい」

 完全におじさんはのばらちゃんの言いなりである。
 その辺のペン立てからハサミを出して、彼女に渡す。

 どこからか取り出したわら人形に、おじさんの髪をいくらか切って、ねじ込んだ。

「言っとくけど、マジで逃げない方がいいよ。この人の呪い、本当に迷信のレベルは超えてるからね。本当に死ぬ…まではいかなくても痛い目見るからね」

 そういい含めて、私たちは店を後にした。
 大丈夫。一応、おじさんと本に、私の呪力でマーキングもした。万が一逃げても、追える。五条先生みたいな規格外瞬間移動スキルもってないなら、だけど。

 仕方ないので、再び坂を下る。
 狭い道が終わって、開けたあたりにエンジンをかけっぱなしにして車を待機させている、補助監督が見えた。ちなみにいつも通り、みつきさんだ。なんか私の面倒見係、みつきさんみたいな感じをそこはかとなく感じるんだが。どうなん。押し付けられとん、お兄さん。

「どう、うまくいった?」

 車に乗り込むと、みつきさんはちゅうちゅうと一人でアイス(ぱぴこ)を食べながらにこやかに言った。
 むっつりとして、出直しよ!とのばらちゃんが言った。

「出直し?」
「そ、お出直しです。クレカ不可なんですって」
「まじか!」

 けたけた、とお兄さんも笑った。
 それなら仕方あるまい、と車を発進させる。

「どうするの、一回高専戻ってまた来る?」
「いや、もうなんか疲れたし、明日でよくないかと思っている」
「んーまぁ別に、問題ないと思うけど。いくらふっかけられた?」
「120」
「120万!やるなあ。上、出すって?」
「二つ返事でオーケーくれましたよ」

 しばらく車を走らせて、みつきさんはコンビニに入った。
 言っていた通り、労いのアイスを買ってくれた。

 ぶうぶうと文句を言いながらのばらちゃんと二人でアイスを食った。

「仕方ないっちゃ仕方ないよねえ。確かに、予想できる事態ではあったかもな」

 ふむ、と言いながらもみつきさんは現金の手配をしてくれているようだった。

「また明日、あの坂を上らにゃならんのか」
「ひ、確かにねえ。しかも、荷物増やして」
「クソ、あのポンコツ爺……」
「お店の風通りの、古風なシステムでしたね」

 などと言って、結局それ以上どうすることもできないので、その日はそのまま高専に帰って、お開きとなりました。



「おはよ」
「まさか朝イチから行ってこいと言われるとはね…」

 はい、おはようございます。
 そこそこ早朝の部類。朝8時でございます。
 昨日しっかりと手配していただいた120まんと一緒に、今日ものばらちゃんとみつきさんを携え、昨日の古物商へと向かいます。

 早起きの代償。
 車で小一時間かかるってなもんだから、当然、これからの厳しい坂道に備えて、体力温存もかねて、もうひと眠りし始めてしまうのも、当然というもので。

 そして当然、やさおのみつきさんはそんなのに文句言うわけもなくて。
 ゆらゆらと心地いい小さな揺れに揺られながら、私たちは目的地までを短い二度寝に費やすことにした。

 そして、かの大難関。
 車では上がれない道。
 今日は、近くにコインパーキングを見つけたといって、みつきさんはそこに車を止めて、三人で、えっちらおっちらと急こう配な狭い坂を上っていた。

 時刻は、九時過ぎ。

 入口には、クローズの看板が出ている。
 おかしいな。昨日、九時開店だと確認したから、今日この時間に出てきたんだけど。

 そう思って、のばらちゃんと、顔を見合わせた。

 何か、大きな違和感がある気がした。

「すみません」

 こんこんとみつきさんが店の扉をたたく。
 返事はない。昨日の本を買いに来ました、と付け加えるも、やはり、依然、返事はない。

 仕方なしに、みつきさんは入口のドアノブをひねる。
 鍵は開いているようで、くるり、と、それは回った。

 開けますよ、と声を掛けて、みつきさんは戸を開けた。

 途端、ぶわ、と、強烈な匂いが鼻をつく。

「……気のせいじゃ、なかったわね」

 鼻をつまんで、のばらちゃんが言った。うえ、と全力で不快感を示している。


 ――――――臭い。魚の、腐った匂いのような、


「なに、これ……」

 口と鼻を覆いながら、みつきさんは言った。
 何事か、と私も店の中を除く。

 薄暗い店内。
 酷く、荒れていた。

「なに、これ………」

 全く同じ言葉しかはけなかった。
 外の光を受けて、てらてらと反射する、不快感を煽る、粘性のありそうな、何か。
 魚のうろこを、ばかでかくしたような、何か。

 それらが飛び散る、乱暴な暴風にでも荒らされたかのように、ものというものが散乱した、店内。

 そしてそのただ中に、呆然としたように、座りこむ、昨日見た店主。

「おじさん」

 私は、自我を喪っている彼に、声を掛けた。
 意を決して、店の中に踏み込む。
 ぎゅり、と、足の裏が滑る。
 見た目通り、その液状の何かは、酷く不快なぬめりけをもっていた。

「…やられた」
「え?」

 おじさんは、うわごとのようにつぶやいた。

「”やつら”に、バレたんだ」
「何を、」
「”神話”は、フィクションなんかじゃなかったんだ。
 あれは、あれらは全て真実で、真実を知ってしまった者はその人知を超える、人間なんて矮小な存在では到底理解しえない膨大な叡智をもってして人間の正気を奪う。
 その真実の断片を、ヒトはフィクションとうそぶくことでしか受け入れることが出来なかった。
 その真実の真実味を、人間では到底、受け止めきることなんてできなかったんだ」

 半狂乱で、おじさんはしゃべり続ける。
 SAN値0。多弁症。そんな感じだった。

「店主さんですね。大丈夫ですか」

 みつきさんが、おじさんの肩に手をのせる。
 おじさんは、抵抗も拒絶もしない。
 どこかうつろに宙を見上げながら、やはりどこか陶酔するように、神話だ、あいつらは実在したんだ、と狂人じみたことをつぶやいている。

「おじさん。本は」

 私は、言った。

「水神、クタアト」

 はっきり、活舌よくそういえば、おじさんははじかれたようにこちらを見る。

「!昨日の、」
「そうです。買いに来たんですけど?本はどこですか。なんですか、この状況は」

 言いながら、少しだけ、私にも予想はついていた。
 だって、昨日つけたはずの、本の側の私の呪力を、全く感じない。

「…本は、本は持ち去られた」
「はぁ!?こちとら耳そろえて120万現金で持ってきたのよ!?」
「”奴ら”に、バレてしまった。かの魔導書が、ファンの作ったまがい物なんかではなく、その実本当に信者たちの所有物だったものが手違いで流れてきてしまったものだと、バレてしまったのだ!」
「ごたくはいいのよ!誰がもっていったとか、分からないの!?」

 ふっと、男は言葉を止めた。
 そして、じっと、のばらちゃんを見る。

「な、なによ」

 それにたじろいだ彼女に、興味を喪ったように、男は、やはりうつろな目をして、ふと、店のあちこちに就く水跡、そして、常軌を逸したサイズのうろこのようなものに目を向けた。

「……そ、そら犯人がこの惨状を作ったことくらいわかるわよ!でもこんなことをしたのが誰かって話で―――」

「のばらちゃん」

 吠える彼女を、私は首を横に振って、静止した。
 昨日の呪力の気配、多少なら、のばらちゃんだって追えるはずだった。
 でも、きっと、何も分からない。

 だって、私ですら、このむせかえるような醜悪な臭気に覆いつくされたように、自分の、昨日の呪力を、とんと追う事が出来ないでいるのだから。

「……まぁおそらく、この様子だと、おじさんも被害者なんだろうけれど、対象呪物を秘匿したという事でこのことは高専には報告しないといけないみたいだね」

 みつきさんは、諦めよくそういって、仕方なさそうに首を振った。

「アレは、本物だった……”奴ら”は、存在する……!!!」

 うわごとのように繰り返すおじさんを、もうどうすることもできないと判断して、少しの現場見分ののち、私たちは店を後にすることとなった。

 電話で、取り急ぎ、上席者へ報告する。
 私も、のばらちゃんも、初めての任務失敗だったので、なんというか、すごく不完全燃焼である。

 坂をてくてく降りながら、のばらちゃんは、悔しそうに舌打ちをした。

「昨日、あのまま面倒くさがらずに引き返すべきだったわね」
「いや、それもどうなんかなあ」

 私は、思わず、そんなことを言ってしまった。


 おじさんの言葉が、耳にこびりついている



 ―――――”奴ら”は、存在する。
      ”神話”はフィクションなんかじゃなかったんだ。



 そんなこと。
 いや、呪霊、呪術、なんて物が実在する世界なんだ。
 そんなことがあっても可笑しくはないのかもしれない。


 だから。


 だからきっと、昨日は、あのまま高専に帰って正解だったのだ。



 もし、おじさんの言っていることが本当なら。
 ”奴ら”の存在が本当なら。





 きっとあいつらは、高専に張った結界なんて、きっといとも簡単に突破して、あの本を奪いに来ていたに違いないから――――





 この、古式ゆかしいお店と違って、他者の侵入に過敏な高専内のことだ。
 そんなことになろうものなら、大騒ぎかつ、対峙必須だっただろう。

 本当に良かった。
 心の底からそう思う。

 もしも、私が、そしてあの店主が想定しているものが正しいのであれば。






 私だって、そして高専の他の誰しもが。


 そいつらを目の当たりにして、正気でいられるとは、とてもじゃないが、思えないから。





 だから、昨日の、私たちの判断は正しかった。
 私は、どう説得することもできないが、ただ、ただ、そう、彼女と自分に言い聞かせるのだった。



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