La dance macabre


 黄昏時の復興市街を、おびただしい数の瓦礫をよけながら右へ左へ折れてゆくと、やがてそのいびつに傾いた建物に行き当たった。
 燃えさかる西日に照らされた洋館。震災前は瀟洒でモダンな建築物として、この町の人々に愛好されたことだろう。それが今や見るも無残な姿で風雨にさらされている。さながら玉蜀黍の粒を余すことなく取り除いてしまったかのごとく、壁面の煉瓦はもろく剥がれ落ち、あと一度の余震に耐えうるかさえ危うい様子である。
「うわあ……ボロボロだ」
 痛ましそうに眉をひそめる菜花の横で、乙弥はじっと洋館の周囲の状況を観察している。
「ここはまったく手がつけられていませんね」
「誰か住んでたのかな。家の人が避難してて、帰ってこられずにいるとか?」
「いえ。ここは屋敷ではなく、ダンスホールだったそうですよ」
「ダンスホール? ……って、舞踏会とかするところ?」
「ええ。なんでもこの界隈では、有名な社交場だったとか」
 そうだったんだ、と菜花は感心の声をこぼす。同時に惜しいような気持ちがこみ上げてきた。
「見てみたかったな、レトロなダンスホール」
「──なら、中に入ってみるといい」
 そう提案してくるのは、今しがた洋館の周辺を一回りしてきたところらしい陰陽師。
「ちょうど今は“逢魔が時”だ。私も中の様子を見てみようと思ってね」
 一体何が“ちょうど”なのか、菜花には見当もつかない。が、なにやら厄介事に巻き込まれそうな気配だけはひしひしと感じていた。
「乙弥」
 と彼は愛用の折り鞄を式神に預けると、その足でなんの躊躇もなく崩壊寸前の洋館に入っていこうとする。慌てて菜花が玄関口まで追いかけ、そのインバネスの端をつまんだ。
「ねえ、本当に入って大丈夫? ここ、崩れちゃいそうだけど……」
「ああ。こわかったら、乙弥と外で待っていなさい」
 やんわりとなだめられ、菜花は口を噤む。説得が無理ならもはや引き留める手はない。
「……やっぱり私も行くよ。摩緒ひとりで、何かあったら大変だし」
 その時彼女はギクリとした。地震の衝撃でゆがんだ扉の向こうから、ふと誰かの笑う声が聞こえたような気がしたのだ。
 摩緒はちらと振り返り、自分の外套にしがみつく手の震えを見てとった。
「菜花」
 こわかったら、と同じ台詞を繰り返そうとするのを、菜花が気丈に首を振ってさえぎる。
 その心意気に、摩緒は目の端を和らげた。
「中に入ったら、私の傍を決して離れないこと。いいね?」
「──う、うん」
 

 ダンスホールは、往時の賑わいをそのままに留めていた。
 市中の電気供給はいまだ復旧していないはずだった。にもかかわらず、天井から吊り下がる照明は、ちらちらと星の瞬くような光を放っている。避難所には着の身着のまま駆け込んできた罹災民があふれかえっているはずだった。ここでは華やかな洋装の紳士と淑女が、カクテルを片手に優雅に談笑している。
「ま、摩緒。この人たちって、もしかして……」
 菜花は今や、心細さのあまり摩緒の片腕にしがみついていた。壁に背をもたれて室内の人々を観察しながら、摩緒はゆっくりと肯く。
「ああ。彼らはもはや生身の人間ではない。霊魂だけが、ここに呼び寄せられているんだ」
「それってやっぱり、幽霊──ってことだよね」
 涙目になって彼にすがる菜花に、摩緒は何を今更という目を向けた。
「今まで散々あやかしや鬼を見てきただろう。それなのに、霊がこわいのか?」
「こわいよっ。だって、た、祟るっていうし──」
「……霊の祟りか。生きている人間が他人を呪うことほど、恐ろしい所業はないと思うが」
 思わず嘆息する摩緒だったが、この世ならざる存在のひしめく異様な光景におびえる菜花の耳には、どうやら届いていないようであった。
 ダンスホールの支配人らしき男性が、蓄音機のレコードを差し替えた。外国の楽団が奏でる、天上の音色のように優雅な宮廷音楽の旋律が、金色の喇叭の奥から綿々と流れ出す。とりとめもなく歓談していた人々は、その曲を耳にするや、方々で男女一対をなしてフロアの中心に集まりはじめた。
 すると摩緒は外套を脱ぎ、カクテルやブランデーのグラスが雑然と並ぶ手近なテーブルの上に置いた。そして身軽になると、
「菜花」
 と彼女を呼び、いぶかしげな視線をよこすその眼前に、自らの手を差し出すのだった。
「……なに? この手」
「ダンスだよ」
「ダンス?」
「そう。ダンスを踊るには、相手が必要だからね」
 恐怖で青白かった少女の頬が、瞬時にして熟れた桃のようになる。
「でも私、ダンスなんて知らない──」
「それは私も同じだ。見よう見まねで何とかなるだろう」
「でも、でもっ」
 摩緒はもじもじと躊躇している菜花の手を掌にすくい取ると、彼女が壁際に別れを告げる間もなく、そのままダンスホールの人だかりの中心へといざなっていった。
 近寄ってみれば、その人々の姿がかすかに透けて見えるのがわかる。亡霊に取り巻かれた二人の肌身には、凍えるような冷気さえ感じられた。──それでも、方々で笑いさざめく声の賑やかさや、ひるがえるドレスの布地のきらめき、間近で相手を見つめる恍惚の眼差しなどは、それらが冥界の住人のものとはおよそ信じがたいほど生々しい。
「周りに溶け込むんだ。生身の人間だと知られないようにね」
「うん……」
 菜花はまともに摩緒の顔が見られないというように、しかめっ面で寄木細工の床をじっと見下ろしている。
 一方、周囲の人々の所作をそれとなく観察していた摩緒は、学びを得ると、早速実践に移した。傍らの紳士に習って腰をかがめ、見よう見まねで、片手にとらえている菜花の手の甲を自分の顔に近寄せていく。
「──!」
 すんでのところで気付いた菜花が、火に触れたようにさっとその手を引っ込めた。
「なにしてるの!?」
「いや、これがダンスの作法なのかと」
 きょとんとする摩緒の顔を殴ってやりたい衝動に駆られる彼女だった。が、自分がたった今亡霊の集団の真っ只中にあることを思い出し、火照った頬を片手でパタパタと扇ぐにとどめた。
「……私、フォークダンスくらいしかやったことないからね。摩緒の足踏んじゃうかもしれないけど、痛くても怒らないでね」
「気にするな。ダンスと言っても、真似事をするだけだから」
 摩緒は再び菜花の手をとる。そして、横眼でちらと場慣れした様子の一組を見ると、その紳士を手本に、あとの片手を彼女の腰へ添えた。
 縮まった距離に菜花がはっと息をつめた瞬間、二人の足は、死の舞踏の最初のステップを同時に踏み出していた。
 蓄音機の音楽はとめどなく流れ続ける。そこに終わりなどないように、亡霊たちは靴音を響かせながら、縦横無尽に床の上を踊り回っている。無数の渦潮、颱風たいふうの目、永遠に止まらぬ風車──。見ていて目眩がしそうになる。菜花は寄る辺を求めて、目の前の摩緒の肩につかまった。
「彼らは、自分たちが死者であることを知らないんだ」
 喧騒の渦中で、ただ一人凪いだ湖水のような眼をした摩緒が言う。
「だから放っておけば、永遠にこの廃墟に留まり続けるだろう」
「──どうすれば、この人たちを助けてあげられる?」
「そのために、私がここにいるんじゃないか」
 彼はふと微笑む。そして菜花の四拍子のステップを乱した瞬間、魔術のようにさっと彼女の視界からかき消えた。
「……摩緒!?」
 取り残された菜花は呆然と立ち尽くした。周囲を見回すが、どれもこれも判で押したような髪型ばかりで、あの白髪混じりの頭はどこにも見当たらない。
「ねえ、摩緒ったら! どこに行っちゃったの?」
 半泣きになった菜花がさらに二度その名を呼んだ時、唐突に背後から待ちかねた声が応じた。
「それにしても、すごい数だ。これだけの霊魂が集まっているから、この廃墟を維持できているんだろう」
 何事もなかったかのような、その取り澄ました表情。一人で迷子さながらの醜態をさらした菜花は、沸々と湧き上がる憤懣をぶつけずにはいられなかった。
「嘘つき! 離れるなって、摩緒が言ったんじゃないっ」
「ああ、すまない。これを取りに戻っていてね」
 摩緒はテーブルに置いてきたはずのインバネスを片腕に掛けていた。その両手は何やら透き通る液体の入ったグラスで塞がっており、その一つを彼は菜花の目先に差し出してくる。
「なに、これ? ……まさかお酒?」
「ああ」
「──私、未成年なんですけど!?」
「これは飲むんじゃない。こうして使うんだ」
 そう言って、摩緒は手元に残ったグラスの中身を、空中に派手にぶちまけてしまった。
 人々の頭上にきらきらと飛沫が舞うのを、菜花は呆気にとられて見ていた。
 そして──ふとダンスホールに視線を戻すと、まるで活動写真がピタリと動きを止めたように、ダンスに興じていたはずの人々は微動だにしなかった。
「菜花、おまえもやってごらん」
 グラスを受け取り、菜花はしばらくそれと摩緒の顔とを交互に見つめていた。が、瞳でうながされ、えい、と思い切りをつけた。
 砕けた水晶のような酒の粒が、ぱらぱらと空中へ散らばる。
 摩緒が片腕で菜花をかばい、空いた手の二本指を口もとに立ててながら、何事か小さく唱えた。
 すると蝋人形さながらに静止していた人々が、まるで眠るように安らかに目を閉じた。
 やがて、一人、また一人と、燃え尽きた蝋燭の煙よりも薄くはかない姿となり、次々と空気にかき消えていく。──その光景を目の当たりにした菜花は、何とも言えない心の竦みを覚えて、その場にぺたんと尻をついた。
 後に残ったものは、黒く煤けた廃墟だった。かつて華やかな社交場であったはずのそのダンスホールの、吊り照明はとうに輝きを失い、蓄音機は喇叭をもぎとられ、花瓶に活けられた薔薇の花はからからに枯れ、グラスは粉々に砕けて床の上に散らばっている。
「菜花」
 夢の後先の区別がつかず、惚けたように廃墟の中を見つめている菜花の頭に、摩緒の外套が覆い被せられた。
「ここは、もう危険だ。一刻も早く出よう」
 手を引かれて立ち上がりながら、菜花は頭上でミシミシと嫌な物音を聞いた。恐る恐る見上げると、天井からパラパラと砂のようなものが落ちてくる。
「──えっ、もしかして崩れる!?」
「だから、早く出なければと……」
「いやーっ!!」
 間一髪、二人はガラスの割れた窓から、外へと脱出した。外で待機していた乙弥が、いきなり飛び出してきた二人を見て何事かと立ち上がった。摩緒と菜花はそれぞれ両側からその小さな手をとり、
「お二人とも、どうしました?」
「早く逃げなきゃ、乙弥くん!」
「でも、摩緒さまの鞄が……」
「それは後で取りに戻るから、今はとにかく走るんだ」
 程なくして、彼らの背後でその廃墟は地響きのような轟音とともに崩れ落ちていった。被害の及ばぬ距離まで逃げてきた三人がようやく振り返ってみれば、土埃のもうもうと立ち昇る中に、瓦礫の山と化したダンスホールの残骸が見て取れる。
 その山の頂に浮かぶ白い月だけが、いつ何時も変わらぬ光で地上を照らしていた。




2020.09.11



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