第16話


 水上にかかる朝靄が太陽に照らされて晴れていくと、行く手に町並みのようなものが見えてきた。
「あの町に行くの?」
「うん。いつも暖かくて、とても良い町だよ」
 ハクが船着き場の杭にロープをかけて船をつないでいる間に、千尋はすっかり腑抜けてしまった自分の顔を手のひらではたいた。つかの間の船旅で、途方もなく長い夢を見ていたような気分だった。
「行こう」
 彼の手に導かれるまま、舳先から桟橋へと、ひと思いに飛び移る。
 その町には煉瓦造りの家が点在していた。いつも暖かい町というハクの言葉通り、至るところに常夏とこなつおもむきが感じられた。
 ハクに手を引かれながら、千尋は名も知らない町を歩く。
 外壁のテラコッタに寄り添うように、背の高い向日葵が咲き揺れ、凌霄花ノウゼンカズラは長い蔓を這わせている。レモン畑もあり、爽やかな香りが鼻先まで運ばれてくるような錯覚をおぼえる。どこかの木の幹で蝉が鳴いていた。雨雲のひとすじさえ寄せつけそうにない青空からは、強い日差しがじりじりと照りつけ、厚着をしてきた千尋はたちまち首筋や背中に汗をかいてしまう。
「……あれっ! ひょっとすると、ハクさまじゃないですか?」
 不意に素っ頓狂な声が聞こえてきた。昨夜も会った少年が、鶏小屋から顔を出して驚いたようにこちらを見つめている。
「早速、来てくれたんですか?」
 ハクが微笑んで、こたえた。
「ええ。今日のうちに、と思ったので来てしまいました。お邪魔してもよろしいでしょうか?」
「もちろんです!」
 四番目の客は目を輝かせ、嬉々として二人を招き入れた。
 ハクは庭へ案内してもらうと、広さを確かめるようにぐるりと一周歩き回った。そしてしばらく空を見上げていたかと思うと、また同じところを、今度は後ろ向きで逆さ回りに歩きだす。
「この庭にだけ雪が降るように、まじないをかけましょう。季節をさかのぼる魔法です。夏から春へ、春から冬へ──」
 そう言う間にも辺りの様子が変わりはじめた。
 足元で伸びていた草花がみるみるうちに縮んでいく。果物の実はしぼんで花を咲かせる。木の幹にしがみついてさかんに鳴き声をあげていた蝉は殻につつまれ、小さな幼虫にかえると土の中にもぐっていった。
 一歩、また一歩、ハクが後ろへ足を踏み出すたびに、空の色合いがうすれていくのが千尋にはわかった。汗ばむほど暑いと感じていたことが嘘のように、腕や脚に肌寒さを覚えはじめる。
 やがて、白い空にかかる薄雲から、粉砂糖のような雪が降りだした。
 はらはらと地面に降り積もってゆくのを見て、少年は飛び上がらんばかりにはしゃぎまわっている。
「すごい……! すぐに弟を呼んでこなくちゃ!」
 雪のつぶはますます大きくなり、地面に足跡をつけてもまっさらな白にかき消されていく。
 初めて雪を見るという兄弟は、鼻の先をしもやけで真っ赤にしながら、念願のかまくら作りに熱中した。
 千尋はにこにこしながら兄弟を見守っている。仲良く並んだ二つの背中は、おのずから自分と妹の後ろ姿を思い起こさせた。
 その横顔をながめるハクの瞳にも、姉としての千尋の一面が見えたようだった。
「妹さんがいると言っていたね。きっと、千尋は優しいお姉さんなのだろうね」
「そうかな」
 トンネルの向こうの妹を思い、千尋は頬をゆるめる。
「年が離れてるから、かわいくてつい甘やかしちゃうの。ハクにもすぐになつくと思うよ」
「そうだといいのだけれど。妹さんを含めて、これから千尋のご家族とは、長らくお付き合いさせていただくことになるだろうから」
 ハクが大事なことをさらりと言うので、うっかり聞き流してしまいそうになる。
 しばらく間を空けて、千尋はようやくかまくら作りにいそしむ兄弟の背中から目を離した。
「それって、つまり──」
「お父さんとお母さんにも、いずれご挨拶にうかがわなければ。向こうで身の周りが落ち着いてからになってしまうだろうけれど」
 千尋は自分の家の玄関先で両親とハクが対面する様子を思い浮かべてみようとするが、なかなかうまく想像力がはたらかなかった。
 一体、なんと言って紹介すればいいのだろう?
「二人とも、驚くだろうなあ……」
 竜の男の子を連れてきたと言っても、到底信じてもらえそうにない。
 けれど当のハクにはもう恐れるものはないらしい。小難しい顔をした千尋を目の当たりにしても、前向きな姿勢をくずさなかった。
「以前は千尋が頑張っただろう? この世界で生きるために。今度は私の番だ。たとえご両親に断られたとしても、千尋の側にいることを認めてもらうまでは、決して諦めないよ」
「湯婆婆との契約みたいに?」
「私にとっては、それよりもずっと手ごわいかもしれない」
 真面目な顔でそう言って、握り締めてくる手の温もりが、千尋にはとても頼もしく感じられた。
「ハクさま、千尋さん、お茶にしませんかー!」
 すっかり二人の世界にひたっていたところへ、少年のなつっこい声が飛んでくる。
 ハクたちが手伝ってやった甲斐あって、かまくらは、縮こまればどうにか四人が入れるほどの大きさに仕上がっていた。
「一度でいいから、こうやってかまくらの中に入ってみたかったんです。ハクさまのおかげで願いが叶いました! ──な、お前もうれしいだろ?」
 千尋の膝の上によじ登ってきた弟が、隣のハクを見上げてニコッと笑った。









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