第15話

 
「これからの私にはもう、必要のないものだから」
 一滴の未練をも感じさせぬ晴れやかな顔つきでそう言って、ハクはまた指を振った。そこら中に積み重ねてあった魔法の本は、これですべてあとかたもなくその場から消えてしまった。
 着替えを済ませて千尋が階下にもどってきた時には、すでにほとんどの本が失われたあとだった。あれよあれよという間に、彼がひと山、またひと山と思い切りよく片付けていってしまうものだから、千尋はつい割り込むようにして訊かずにはいられなかった。
「本当に、全部消しちゃっていいの? ……あとで読み返したくならない?」
 その問いかけに対してかえってきた答えが、先程の決然とした言葉だった。
家移やうつり──と言っても、もともとこちらへは何も持ってこなかった以上、向こうの世界にも持ち帰るものはないからね。この家には、何も残さずに去るつもりだよ」
 千尋は、目の前のハクが「帰り支度」をしているのだという確かな実感に、胸を熱くした。数少ない家財道具が消え、生活の痕跡さえ失われたようなガランドウになっていく家の中を見渡しても、寂しさは感じなかった。振り返らずに前へ進むという彼の意志を、何にも代えがたいもののように、大事にその心の中で受け取っていた。
「立つ鳥跡を濁さず、というだろう?」
「うん」
 ふと千尋は笑う。
「でもハクは竜だから、立つ竜、かも」
「竜──……立つ竜、か」
 彼がまなじりを和らげた。
「千尋の言う通りだね」

 桟橋に立つ後ろ姿は、青みがかった朝靄の中で、まるで幻影のように浮かび上がって見えた。
「ハク」
 呼び声に振り向きざま、千尋は彼の髪がふわりとなびくのに、ふと既視感をおぼえた。
 ──竜のたてがみだ、と思い至る。
 ひょっとすると、ハクは今──竜になろうとしていたのかもしれない。
 答え合わせをしてみようかとも思った。けれどそのことを急かすようで何となく気が咎め、結局、手を振って笑い返すにとどめた。
「今日は船に乗っていこう。電車を待つよりも、その方が早いだろうから」
 葦が生えた水面に浮かぶ小船を桟橋にたぐり寄せ、ハクは千尋の手をとる。
 それは昨夜、四番目の客が帰る時に乗っていった船だった。誰かがここまで漕いできたのか、あるいは魔法の力がはたらいたのか、いつのまにかもとの場所にもどっている。
 ハクは船尾に、千尋は舳先へさきに、お互いに向かい合う体勢で座った。ハクが櫂を漕ぎはじめると、小船は辺りの水面にゆらぎを生じながら、ゆっくりと朝靄の中を進み出す。
「ハク、見て。あの家が見えなくなっちゃう──」
 彼の肩越しに、千尋は遠ざかる孤島を見送っていた。あの白壁の家が霧がかった世界の中に閉ざされてしまう前に、別れを告げた方がいいのではないかと思った。けれどハクは、ただ黙って穏やかで満ち足りた微笑みを千尋に向けている。船の行く先だけを見据えている彼は、もう孤独な過去を振り返るつもりはないらしい。
「──名残惜しくない?」
「ああ。まったく」
「空き家になったから、また誰かが住むのかな。次はどんな人が住むんだろう……?」
「誰にせよ、あのぬかるみの道には気をつけた方がいいだろうね。──大雨が降った日には、水があふれて道ならぬ道になってしまう。とても歩けたものではない」
 苦笑しながらハクは言う。
「けれど、あの家にはとっておきの魔法をかけておいたから、きっと次の住人には良いことが起こるはずだよ」
「……とっておきの魔法?」
「うん。千尋がつけてくれた『葦沼ヨシヌマ』という名自体が、すでにまじないも同然だ。だから私も、あの家に住む人の心が澄み渡るように、まじないをこめたんだよ。まあ──置き土産のようなものかな」
 どこかで鳥が鳴いていた。
 朝食に握ったおにぎりをかじりながら、千尋はその軽やかなさえずりに耳を澄ませた。ハクも櫂をとめて聴き入っている。
「あれは葦雀よしきりだね。私の川の周りでも、夏になるとよく鳴いていたものだ」
 懐かしそうに目を細める。
「ハクは変わらないね。あの鳥がコハク川で鳴いていた頃から、あの川でハクがわたしを助けてくれた日から……ずっと」
「こんなにも変わり果ててしまったのに?」
「ううん。やっぱりハクは、いつだって優しい神さまだもん。誰かの願いを叶えてあげたり……誰かに良いことが起きるように願ったり……」
「それは」
 ハクが小首を傾げて言う。
「千尋も同じではないかな?」
「わたしはべつに──」
「千尋こそ変わらない。私の中に落ちてきた日から、私を闇の中からすくい上げてくれた瞬間から──ずっと」
 彼は千尋の頬に手を添え、ゆっくり上体を前倒しにして顔を近づけてきた。
「私の、海」
「──……海?」
 聞き返す声ごと、のみ込まれた。
 昨夜の仕返しかもしれないし、そのことがなくても、いずれにせよこうなっていたのかもしれない。
 千尋は、真正面からその運命に立ち向かった。







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