第14話

 
 鳴りやまぬ胸の高鳴りを感じながら、千尋は寝床についた。頭がふわふわとして夢見心地だった。目を閉じてもその裏には、あのほのかで優しげな笑みが浮かんでいた。耳の奥にはささやく声が、唇の先にはあの白い頬に触れた感触がよみがえった。今夜はとても眠れそうにない──そう思っていたけれど、いつしか意識は深い水の底へと沈んでいた。
 翌朝、身繕いをして階下におりると、ハクは奥の間で本を読んでいた。今日は余所行きらしい洋服を着ている。そんなに寝過ごしてしまったの、と千尋は焦った。待たせたことを詫びる千尋に、本を閉じながら彼は鷹揚に笑いかける。
「まだ早朝だ。昨日はゆっくり休めなかっただろう? 今日こそは寝坊してもよかったのに」
「ううん、大丈夫。もうじゅうぶん休めたから。──ハクは早起きなんだね。いつもそうなの?」
「昨夜は眠れなくてね。一晩中起きていたんだ」
 見ると畳の上にも、机の上にも本がうずたかく積んであった。夜長のなぐさみに彼が読んでいたものかもしれない。千尋はなんとなく水臭いような気がして、つい口走ってしまう。
「起こしてくれれば、わたしが話し相手になったのに……」
「本当にそうしたくなったけれど、千尋の眠っている姿を見たら、起こすに忍びなくてね」
 閉じた本の表紙を撫でるその手つきのように、柔らかな声でハクは言う。彼に無防備な寝顔を見られていたことなど寝耳に水だった千尋は面食らった。どうしよう、へんな顔して寝てたりしないよね。まさかよだれ垂らしてたり──。
 そんな複雑な乙女心を知る由もなく、青年は話題を切り替えた。
「ところで、今日は千尋に付き合ってもらいたいところがあるんだ。一緒に来てくれる?」
「えっ、わたしも一緒に行っていいの?」
「ここにいても退屈だろう? 最後に少しだけ、この世界を見てみるというのもいいかと思って」
 ──最後に少しだけ。千尋はハクの顔をじっと見つめた。
 諭すように、彼が念を押してくる。
「日没までにもとの世界へ帰らなければ。遅くなると、千尋のご家族が心配してしまう」
「ハクも一緒に帰るんだよね? ……そうでしょう? わたしひとりだけ、向こうに帰したりしないよね?」
 鬼気迫る勢いで詰め寄ってくる千尋に、ハクは気圧されたのか、目を見開いた。
「お願い、『うん』って言って。『帰る』って言って。ちゃんと言葉にしないと、願いは叶わないんだから。──ね、コハク」
 その瞳が千尋を映しだした。本当の名を呼ばれたその瞬間、見えない川がその奥からうねりをあげて流れ出ずるのが千尋には見えた気がした。

「うん。──……私も、帰るよ」

 千尋と一緒に──と言いざま、その片方の瞳から世にも清らかな細流が湧き出て、まばたきの間に頬の上をきらりと流れ落ちていった。
「帰りたい。だから、私も一緒にトンネルの向こうへ連れて行ってほしい」
「ハクがそう望むなら──」
 どこにでも連れて行ってあげる、と千尋はささやいた。
「あなたの願いは、わたしの願いだから」
 ハクは指先で頬をぬぐい、えもいわれぬかぐわしい夢を見ているような表情で、頷いた。
「……ひとつだけ、やり残したまじないがある。魔法使いとして最後の仕事をしに行かなくては」
「昨日のお客さん?」
「うん。四番目の、お客さまだよ」
 ──良い夜を、という少年の声が千尋の耳元にこだまする。
「雪を降らせてあげるの?」
「そういう依頼だったからね。かまくらを作れるくらいの、大雪を降らせるんだ」
「すごい、夏に雪遊びができるなんて! わたしもお手伝いしていい?」
「もちろん」
 ハクは声にまで笑みを含ませ、二階に上がってみるよう千尋にうながした。
「その格好では寒いだろうから、着替えてくるといい。さっき──この本で見かけた服を用意しておいたから」
 読みさしの本をかかげて言う。
 ありがとう、と千尋もこぼれるような笑顔を向けた。
 







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