第7話

 下の階から、話し声が聞こえてくる。眠っているあいだに来客があったようだ。
 千尋は姿見をのぞきこみ、自分の出で立ちをもう一度確かめた。
 起きた時の着替え用にといって昨夜ハクが貸してくれた着物は、男物とはいえ何年か前に彼が着ていたものだから、丈はどうにか合うはずとハクは言っていたけれど、それでも千尋には少し大きかった。帯の締め方がわからないので、背中で蝶々結びにしてみたが、後ろ手でうまく結べなかったので、縦結びになってしまっているのが見える。
 それでもパジャマで下りていくよりはましなはず、と自分を励ましながら、千尋は脱いだパジャマをたたんだ。使った布団も綺麗にたたみ、押し入れの中にもどしておく。
「今、何時なんだろ……?」
 床の間には時計がなかった。窓から光がこぼれているのを見ると、もうすっかり日は昇っているようだが、正確な時間は見当がつかない。ただ、随分と深く眠りこんでいたような気がした。体の疲れがすっかり取れていたからだ。
「──……というお願いで、まいりました」
「わかりました。つまり貴殿は、このようなまじないをご所望ということですね……」
 階段を下りていくと、二階でかすかに聞こえていた話し声が段々と明瞭になってくる。千尋は「沼の底」からの訪問者を予想していたが、会話の内容からして、どうやら当てが外れたようだった。
 足音をしのばせてそっと壁伝いに廊下を歩く。起きてからずっと喉が渇いていた。台所でコップに水を汲み、一気に飲み干す。
「──おや。どなたかいらっしゃるようで」
 客間からの声に、千尋はあやうく噎せそうになった。気配を消していたつもりが筒抜けだったらしい。
「どうかお気になさらず」
 ハクがさらりと返すのが聞こえる。
「まじないはもう済みました。他にご用命はございますでしょうか」
「──ああ、いや。用事が済んだのなら、これ以上の長居は無用ですな」
 客が帰り支度をする様子が、壁越しに伝わってきた。
「今回も助かりましたよ。ハクどのがおられなければ、まったくどうなっていたことか……」
「ご満足いただけて何よりです」
「また、よろしく頼みますよ」
「何なりと」
 千尋は台所の壁際に寄りかかり、ハクが玄関先で客を見送りながら交わすやりとりを聞き届けていた。ドアが閉まると、ようやく話し声はやんだ。
 彼が廊下を歩いてくる気配がする。
「……ハク」
 おずおずと、千尋は台所から顔を出した。
 昨夜のややかしこまった外出着の洋装ではなく、家の趣きに溶け込むような着流し姿のハクがそこにいた。千尋の顔色をうかがうように、わずかに首を傾げている。
「昨夜はよく眠れた?」
「う、うん」
「それは良かった」
 彼が台所に入ってこようとした。が、千尋の出で立ちを爪先から頭の天辺まで見て、はたと動きを止める。
 千尋はそれに気づかずに言葉を継いだ。
「昨夜は色々とありがとう。……それから、さっきは邪魔をしてしまってごめんなさい。お客さんがいたのに」
「……? 邪魔になどならなかったよ。気にすることはない」
 ハクが千尋の襟元をしきりに見つめながら言う。不安を感じた千尋は胸元に手を当てた。
「あの……何か変だった?」
「いや」
 彼はちらりと千尋の目を見やる。
「合わせが逆になっているな、と」
「……えっ」
 千尋の頬が赤く染まった。最後に着物に袖を通したのは七五三の時だろうか。浴衣さえ自分で着たことがない。自分の無知さがひどく恥ずかしかった。
 ハクはふと目を細めた。
「一番丈の短いものを渡したのだけれど、それでも合わなかったかな。少し大きいみたいだね」
「だって、ハクは男の子だもん……」
 千尋は気もそぞろに返した。今すぐにでも二階に上がって着付け直したいと思った時──突然、千尋の腹の虫がせつない鳴き声を上げた。
「……」
「ちょうど、お昼を用意するところだったんだ。朝ごはんを食べそこねてしまったからね」
 ハクが心なしか先程よりも優しい口調で言う。気を遣われたのかもと、千尋は顔から火を噴きそうになりつつ、彼のあとにつづいて台所に入った。袖にたすきをかけながら、ハクがちらと視線を寄越す。
「座っていてくれていいんだよ」
「ううん、手伝わせて。じっとしてるよりいいから」
 汚名をそそごうとばかりに千尋は袖をまくった。十才の時に油屋で学んだ襷がけだけは、体がよく覚えていた。──ついでに着物の着方も聞いておけばよかった、と、溜息をつきたいような気持ちになる。
 

 


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