呼びとよ



 花の蕾がふくらむ時季になるといつも、誰よりも待ち遠しそうな父がいる。
 決して自然の巡りに情緒を味わうような風流人というわけではない、むしろ風流からはかけ離れた人だけれど、春の来訪はきまって父を神妙な面持ちにさせた。
 何か特別な思い出があるのかしらと、それとなく訊いてみると、遠くに霞む若緑の山峰を見晴るかすように目を細くして、
「──かごめを嫁にもらったのは、ちょうどこんな日だった」
 普段は母との惚気話など、羞ずかしがって絶対に語ることのない父が、めずらしく素直に白状した。
「春が来るたびに思い出すんだよな。祝言の日の、かごめの白無垢姿」
 目を伏せて微笑むその横顔には、懐かしさと憧憬が春霞のように淡くただよっている。母への変わらぬ愛が感じられ、喜びとくすぐったさとが胸に去来した。
 祝言の日といえば──杯をめぐらす式三献しきさんこんを終えると、父が母を連れてどこぞへ雲隠れし、三日間帰らなかったという話を子どもの頃に聞かされたことがある。
 その真偽の程を直接確かめるべく、あの時母をどこに連れ去ったのかと尋ねれば、父は急にどぎまぎして目を泳がせはじめた。
「そんな昔話、どこで誰に聞いた?──ちくしょう、弥勒のやつだな。いつもうちのガキ共に余計なことばかり吹き込みやがって」
 好奇心にかられた娘の追求を逃れるため、父は向かつ山のそのまた奥まで高跳びせねばならなかった。そしていつかの繰り返しのように、三日間帰らなかった。
 父の血からわずかばかり授かった犬妖怪の嗅覚は、父の行先から、匂い立つような春の薫りが漂ってくるのを感じ取っていた。
 目を閉じれば、咲き初めの桜の木々がけぶる春山の裾野で、──母の名を呼ぶ声がこだまするのが聞こえてくるような気がした。




2019.03.18

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