霄を凌ぐ花
蝉の鳴き声は、数日前よりも随分とおとなしくなったようだった。
公園を過ぎてすぐの曲がり角の突き当たりにあるひなびたアパート、三界ハイツ。何十年もそのままの古びた外観と度重なる怪異のうわさのために、近所の子どもたちから「幽霊屋敷」と呼ばれているそのアパートには、桜の馴染みの死神が暮らしている。
手すりがすっかり錆びついた階段を上がってすぐの201号室が彼の住みかだ。蝶番がいまにも外れそうなドア越しに呼びかけるが、応える声はない。仕事に出ているようだ。桜はいつも通り合鍵で中に入って、家主の帰りを待つことにする。
風通しを良くするために窓を開けると、六畳一間のこぢんまりとした部屋に、乾いた夏風が一瞬だけ吹き込んできた。黄昏時の赤く滲んだ空に、よく似た色合いの花が、窓枠の隅からそっと頭【こうべ】を垂れている。壁づたいに地面から這い伸びてきた凌霄花【のうぜんかずら】が、二階のりんねの部屋の窓まで行き届いているのだった。
桜は団扇をあおぐ手をとめて、窓越しにその赤い花に触れてみた。
先程降った通り雨の名残か、花びらはしっとりとしずくをまとっている。
いつだっただろう、ある天気雨の夕暮れに、帰ってきた時のりんねもあの赤い前髪からこんなふうに雨露をしたたらせていた。狐の嫁入りに立ち会ってきたんだと、くしゃみをしながら言っていた彼。案の定、次の日に風邪を引いてしまったので桜がつきっきりで看病したのだ。あの時見かねて譲ったビニール傘は、どうやら重宝しているらしく、今も玄関にきちんと畳んで立てかけてある。
桜の指先で色鮮やかな凌霄花がゆれる。彼の姿が、彼女の脳裏に浮かんでくる。
きっとりんねも、家にいる時にはこうして窓辺に座って、暇を持てあましては、花を眺めたりするのだろう。
彼がここから見える景色を分かち合う相手は、彼女だけ。家族でも相棒でも恋人でもない、なんの肩書きももたないはずの彼女だけに、彼は自分の部屋の合鍵を預けたのだから。
「それって、りんね様の精一杯の『意思表示』なのでは?」
数日前、ひさしぶりに会った彼の契約黒猫は相変わらず賢くて、桜があまり考えないようにしていたことを即座に指摘してきた。
黒猫段位テストの上段をめざして、あの世で修行中の六文。そのうちあの黒猫がりんねの側に戻ってきたら、何一つ変わり映えのしない二人のあいだで、何かが変わるのだろうか。
「意思表示、かあ……」
りんねが桜に合鍵を渡した真意。
うぬぼれでなければ、そういうことなのかもしれない。
けれど彼から直接言葉をもらったわけじゃない。なのにそうだと認めてしまうのは、少し押しつけがましいような気がするーー。
桜は窓から身を乗り出してみる。西日が目にまぶしくて、手で庇をつくったその時、下から彼女を呼ぶ声がした。
夏になるとアパートの壁をびっしりと覆う凌霄花が薄気味悪い、と言う人々もいるらしい。けれど当の住人であるりんねは、そうは思わない。
今日は、数日ぶりに部屋の窓が開いていた。
夕映えの赤い花の中から、彼の想い人が顔を覗かせている。
「おかえりなさい。六道くん」
夕日がまぶしそうに、目を細めている桜。
りんねは出迎えてもらえることが嬉しくて、むずがゆくて。
まだ「ただいま」を言えずにいる。
「ーー暑くないか?真宮桜」
「うん。もう、だいぶ涼しいから」
そういえばもう、蝉時雨と呼ぶほど鳴き声がしない。
道ばたで子ども達が蝉の脱け殻をひろっている。時々ちらちらと窓越しに会話するりんね達の方を見て、意味ありげな笑い方をする。
ーー幽霊屋敷のお兄さんの彼女。
子ども達が桜のことをそう呼んでいるのを、りんねは知っている。
桜がもし知ったなら、否定するだろうか。
言葉にして伝えたいことは山ほどある。
桜との出会いから足かけ十年。
小さな芽から育んできた想いは、やがてあの赤い花のように空を凌ぐだろう。
「もう少しだけ、待っていてくれ」
桜が帰ったあとの部屋、桜が座っていた窓辺、桜が見ていた夕焼け。
曲がり角の向こうに彼女の後ろ姿が消えたあとも、りんねはまだ名残惜しくて腰が上がらない。
羽織から預金通帳を出してみる。
目線の高さまでもちあげて帳面を確認する。
ーー目標の貯金額まで、あと少し。
もうすぐこの貯金で、人生で一番の贅沢を買うのだ。
【※】←こちらのイラストから着想を得ました。
2016.03.26