るろうに剣心 | ナノ


▼ 大樹の陰で 【弥彦+薫+剣心】


 ただひたすら体を動かしていたかった。そうした方がより自分らしく見えるような気がした。出稽古と道場稽古の後にも汗をかくのに飽き足らず、庭木に向かって一心に竹刀を振りつづける。素振りばかりで張り合いがなくなってくると、干し場にいる剣心のもとへ駆けた。
「今日はもういいだろう、弥彦」
 駄々をこねる子をあやすように、彼は笑う。
「がむしゃらに竹刀を振っていればいいわけではござらん。そういう時には、心と体を休めることも大事でござるよ」
「──どういう時だよ。|そういう時《圏》って」
 この男には幼稚なごまかしなどとうに見透かされているらしい。ふてくされる弥彦の背後で障子戸を引く音がした。今になって筋肉痛でも得たように肩がこわばる。
「二人とも、もうごはんの時間よ──」
「俺、今はいらね──」
 ふたつの声が重なった。居間からのぞく薫の様相がみるみるうちに険しくなっていく。
「なによっ。弥彦、あんたこの期に及んでまだ私の料理が食べられないっていうの?」
「腹へってねえんだよ」
「それだけ汗かいて、食欲がないですって?」
「まあまあ、薫殿……」
 剣心が間に割り入ってとりなした。見れば彼女は本気で腹を立てたわけではないようで、あねさんかぶりの手ぬぐいを頭からほどきながらしょんぼりと肩を落としている。
「明日は弥彦の家移りだから、今日は三人水入らずで食べたくて、頑張って作ったのに……」
 こう言われては弥彦も立つ瀬がなく、おずおずと振り向かずにはいられない。寂しげな薫の瞳と出会ってしまえばもう意地など通せそうにもない。師匠のしおらしい姿にはとんと弱い彼であった。
「ったく大げさだな……。嫁入り前の女がたかがメシのひとつやふたつで、いちいち騒ぐなよな」


 ──大げさだ。その言葉は放ってからしばらくのちに山びこのように弥彦の心に帰ってきた。
 引っ越し先は神谷道場から目と鼻の先の破落戸長屋。のみならずこの二人とはいずれにせよこれからも毎日稽古で顔を合わせるのだから、彼の日常は何も変わりはしない。
 変わることなどないはずなのに。
「今日は久しぶりに私の部屋で寝なさい、ね?」
 風呂上がり、有無を言わさず弥彦は薫の部屋に引き込まれた。布団はすでにふたつ敷いてある。ほら湯冷めしないうちに早く、と薫が手ずから掛け布団の端を折っていざなった。
「あんたがうちに来たばかりの頃は、こうして枕を並べて寝てたわよね。──覚えてる?」
「……さあな」
 上機嫌な薫に対する返事はぶっきらぼうに聞こえた。照れ隠しもある。いまだに子ども扱いされているのがやや癪にもさわる。けれど同時になにか胸の詰まるような逼迫した思いが少年の心にひしめいている。
「あの頃は、随分と生意気で手のかかる子が来ちゃった、って思ったわよ」
 くすくすと薫が笑う。こそばゆくてたまらない弥彦は、売り言葉に買い言葉とばかりに応戦した。
「俺だってなあ。こんなドブスのところに弟子入りなんて、冗談じゃねえって思ったぜ」
 髪を編んでいた薫がいきなり眉を逆立てた。
「ちょっと、誰がドブスよ!」
「おめー以外に誰がいるんだよ、誰が」
「言ったわね、もうシメてやるっ」
 薫は枕を投げつけてこようとするが、ふとその瞳がいつになく優しく和らぐのを弥彦は見た。
「……」
「……」
 枕合戦にはならなかった。むしろそうなってくれた方がどんなにか良かっただろう、と少年は惜しまずにはいられない。
 薫の手が洗いたての彼の頭をくしゃりと撫でていた。いつまでも子ども扱いされるようで腹が立つのに、なぜか弥彦はそれが嫌ではなかった。行灯の薄明かりに照り映える薫の微笑み。それを見ていると、なにかが今にも心の底からせり上がってきそうになる。
「ねえ、弥彦」
 弥彦、ともう一度名を呼ばれた。
「──あんた、本当に左之助の長屋に移りたい?」
 弥彦は、喉が詰まったように言葉が出なかった。思わず両手で自分の口を押さえた。
「あんたさえそうしたければ……ねえ、弥彦。ずっと、ずっとうちにいてもいいのよ」
 そんなつもりはなかったのに、指の間から嗚咽がこぼれた。己の幼稚さを恥じた少年は小さなてのひらで顔全体を覆い隠した。
「……なに、言ってんだよ。馬鹿」
「だって、弥彦、あんたも私の大事な──……」
 弥彦は赤い目できっと相手を見据えた。
「言うなよ、薫」
「弥彦」
「言うなよ……。家族だなんて、家族だなんて、俺──」
 薫の腕が彼を掻き抱いた。弥彦はどうにかしゃくりあげるのをこらえたが、その背にしがみつくのはやめられなかった。
「俺はお前の家族じゃねえ。おんなじ釜の飯を食ったって、おんなじ部屋に寝てたって、剣心とは違うんだ。俺は……家族になんかならなくていい。俺はお前の一番弟子だ、薫。ずっと、俺もお前の仲間なんだ──……」
 うん、うん、と薫は何度も頷いた。
 弥彦は彼女という大樹に見守られながら、己がどれほどのびやかに育ってきたかを思った。
 だからこそ──どれほど名残惜しくとも、その大樹の陰で憩うのは、もう今夜をかぎりにしようと胸に固く決意した。


「忘れ物はないか? 弥彦」
 おう、と弥彦は草履に足を差し入れながら返した。縁側においてある風呂敷包みを持ってやろうとする剣心に、
「見送りとかいらねえよ。どうせすぐ稽古で戻ってくるんだしよ」
「そうでござるか」
「そんなことより、頼みがあるんだ」
 ふと笑って、耳打ちした。
「──今日はずっとあいつの側にいてやってくれよ。独り寝じゃ、寂しいだろうからな」







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