るろうに剣心 | ナノ


▼ 雪のあとさき 【剣薫前提/縁薫】

 かたやごくありふれた婦人の和服姿。かたや洋行帰りを偲ばせる洋装の紳士。
 連れだち歩きというわけでもなく、かといってまるっきり他人同士のようでもない。はたから見ればきわめて奇妙な距離を保ちながら、彼らは閑静な川縁の小路を歩いていた。
「……」
 言葉はまだひとつとして行き交っていない。おそらく糸口を見つけあぐねているのだろうと、彼は相手方の心境を推し量る。
 ──往来で出会ったあの時。
 自然と彼は歩みを止めていた。
 行き先を忘れた。
 来た道さえ、定かではなくなった。
 気づかぬふりをしてすれ違うこともできたのだろう。彼の中の何かが、その目から視線を逸らすことを拒みさえしなければ。
(──馬鹿な。今更この女と顔を合わせたからといって、何を話そうというんだ?)
 さしたる用事がないのなら従いていく必要などない。親しき仲というわけでもないのだ。むしろ因縁と呼ぶべきだろう。二度と差し向かうことなどないと思っていたはずだ。
 にもかかわらず、彼はそれが唯一の道しるべであるかのように、前を行く背をたどっている──。
 そしてその背は、敬遠するでも歓迎するでもなく、ただ我関せずといった様子で彼のなすがままにさせておくばかり。
(相変わらず、変わった女だ……)
 だがそれでも確実に月日は流れている。十余年という時は、多感な娘を何事にも動ぜぬ婦人へと成長させたようだった。──ちょうど殺気立った復讐鬼が、思慮深い紳士へ生まれ変わったように。
 横町からまろび出てきた子ども達が、子犬のじゃれあうようにして彼らの側を通り過ぎていった。
 すると先を歩く人妻は、すれ違った子ども達の背を目の端で追いつつ、ようやく彼をかえりみた。
「──……雪代縁」
 しばし反応が遅れた。
 その名を呼ばれるのはいつ以来のことだったか。
「ねえ。今ならもしかすると、──あなたは私を殺せてしまうの?」
 銀縁眼鏡の奥で、彼の瞳はまばたきさえしない。彼女の声、その言葉、自分の名さえもどこか遠くに置いてきたもののようで、たった今目先にあるものと理解するのにやはり時間を要した。
「……今更お前のような女ひとり殺したところで、俺には何の得にもならん」
「あら、そう?」
「それにこの十年余り、俺は一度たりとも人殺しなどしていない」
 そう、そうなのね、と緋村薫は胸をなでおろすようにして笑った。
「よかった」
「貴様に害は及ばないと判ったことがか?」
「ううん。あなたが陽の当たる道を歩けていてよかった、と思ったのよ」
 混じり気のない真心を前に、つかの間、縁は言葉を失う。
「──呆れるほど能天気だな。以前は、敵に塩を送らなければよかった、などと後悔していたくせに」
「いつの話よ、それ」
 彼女が眉を八の字にして苦笑する。
「あなたはもうあの時の雪代縁じゃないでしょう。目を見ればちゃんとわかるわ。そうやってあなたが穏やかに暮らしていれば、きっとあなたの中の巴さんも──……」
 ハッと緋村薫は手でみずからの口を覆った。みだりにその名を口にするべきではなかった、と後悔したらしい。
 だが縁の心は意外にもささくれ立ってはいなかった。自分の本当の名と同じく、姉の名もまた久方ぶりに耳にするものだった。悪意ある者の口からその名がこぼれることは耐えがたいだろう。けれど目の前の女の語り口からは、むしろ深い親しみの情さえ感じられる。
「……お前に、姉さんの何がわかる」
 憎まれ口をたたきながらも、縁の瞳の内にはすでに敵意はなかった。──愛する姉を奪った男への怒りが完全に燃え尽きることはないが、今となってはその大部分が灰燼と帰している。寄る辺のない悲しみだけがそこにあった。その悲しみの一抹をその手の内にすくい上げるようにして、緋村薫はほのかに笑いかけてくる。
「同じ男《ひと》を愛した女《ひと》同士だから、わかるような気がするだけ。──ただそれだけのことよ」
 
 ひたすら姉の笑顔を取り戻したかった。
 ──十余年前。
 長いこと掃きだめのような集落にとどまり、どうするべきかを考えた。だが出口の見えない迷路に延々とまよいこんだかのように、答えは杳として見えてこない。
 そうした日々の中、時に夢を見た。
 はらはらと雪が舞っているのかと思えば、それは桜が散り交っているのだった。のどかな桜吹雪、うららかな春の陽だまりの中、姉のようにもそうでないようにも見える誰かが、あの男の横で幸せそうに笑っている──。

(そうか。──なぜ雪ではなく桜だったのか、ようやくわかった気がする)
 人誅をくじかれたあの日。神谷薫の着物には桜が舞っていた。彼はそれを心のどこかに記憶していたのだろう。
 姉の笑顔を取り戻すにはどうするべきか。
 答えはとうに夢の中で与えられていた。
「──薫殿。今さっき、誰かと一緒にいたのではござらんか?」
 角を曲がった時、声が聞こえてきた。愛妻の帰りを待ちかねて迎えにきたものらしい。
 振り返ればそこに、彼が夢に見た光景がある。
 川縁の桜の木はまだ芽吹いてさえいない。寒さをしのぐために男は襟巻を、女は肩掛けを巻いている。川の水は凍りかけ、靄が立ち、ほの白い空からはちらほらとはだれ雪が落ちてくる。
 だが彼女は笑っていた。夫の迎えが余程嬉しかったものと見える。妻の映し鏡のように、あの男もほんのりと笑い返している。そこだけが春の日差しを受けたように色づいて見える。
(あの女が笑えば、あいつも笑顔になる。そうすればきっと姉さんも──……)
 雪代縁はかすかに震えるまぶたを閉じた。──失くしていたものを見つけ出すために。





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