――60年後に再び誰かの涙が流れないように。痛みに胸が押し潰されないように。 



トロイメライ



長い時間の空の旅を終えて、たどり着いたのは極東の島国。此度の聖杯戦争が行われる冬木の地だ。肌寒い気温に冷たい風が体を包み込む。くしゅん、と控えめなくしゃみが聞こえるとジャンヌはセリアの肩に自身の羽織っていたコートを着せた。


「…大丈夫ですか?」

「はい。すみません、外出が久方ぶりだったもので」


やはり冬は慣れませんね。と眉を下げて笑った主に頷くと、僅かながら敵のサーヴァントの気配…、正確には魔力を感じ取ったジャンヌ。改めて始まるのかと思うと胸が痛む。何度も繰り返された聖杯戦争は決しても誰一人として活路を見出していない。絶望し、その願望器の存在を呪いながら死んでいくのだ。そんなこととは露知らず、こうしてまた呪いの杯を求める命がけの戦が始まろうとしている。


「今晩は近場のホテルに泊まりましょう。それから短期滞在の出来るアパートを借りて、早々に準備を始めなければ」

「はい」

「ところでジャンヌ、お腹は空きませんか?」


その細い腹部に手を宛てて気恥ずかしげに問いを投げた主。ぐぅ、と腹の虫が鳴る音が聴こえると本日は朝食を食べたきりかれこれ8時間程物を口にしていないことを思い出す。サーヴァントは空腹という感覚が無い為にすっきりと忘れていた。


「私は先刻申し上げた通り、空腹にはなりません。ですが主には些か遅いランチとなってしまいましたね」

「…ええ、実はもうぺこぺこです」

「ならば周辺の飲食店に入りましょう。この国のスシという品は中々に絶品です」

「それは楽しみです」


くすりと笑って一言、まるでガイドブックのようですねなんて言うものだからジャンヌは苦笑するしか無かった。もう冬木を見るのは四度目だ、多少の知識は見に付いて当然というものだろう。キャリーバッグを引きながら、目当ての料理の振舞われる店を探すと意外にも早くそれは見つかった。嬉々と頬を赤らめるセリアを宥めるように制すと、和風の店内に足を踏み入れる。西洋とは変わった内観に言葉を失い興味深そうに見渡すセリア。元気のいい店員の異国語に慌てて魔術で対応する姿は流石魔術師といったところか。流暢な日本語を話すように聴こえるが、実際は達者な英語を話している。勿論セリアの施した魔術によって、だけれど。



「ジャンヌ、このテッカマキというものは何でしょうか?」

「それはツナの細い切り身を、酢飯で巻いたものです」

「……美味しいのですか?」


恐らく説明を理解してもらえなかったのだろう。眉を顰めて文字と睨めっこしている。これこそ歳相応の姿というところか、しっかりとした気丈な振る舞いよりもこちらのほうが相応しい。小さく唸る声が聞こえると、思わずジャンヌは薄く笑みを浮かべた。


「どうしましたか?」

「いえ…。申し訳ございません」

「ジャンヌ、このテッカマキとタマゴを注文したいです」

「それでしたら店員の方をお呼びして、」


ジャンヌが異国語で一言二言ことばを交じわすと清潔さが目立つ店員の女性は、カウンターへと戻って行き布を額に巻いた男性に何かを伝えている。これは、国の伝統のものなのでしょうか。見渡すところ、鳥の形に折られた赤紙や、入り口には切れ目の入った紺色の布が垂れている。商いの様子もイギリスとはまた違っていて何とも面白い。一片の飽きすら懐くことなくメニューや看板を眺めていると、斬新な見た目の料理が運ばれてきた。


「…これは、どうやって頂くのですか」

「本来は箸を御使いになられていますが、素手で召し上がられても宜しいかと」

「素手…ですか…?」


辺りの来客を見回すと、確かに日本の細い棒を巧みに使い食事をする姿が目立つが、成る程確かに素手で食べている姿もちらほら見受けられる。それに何やら小皿に赤みのかかった茶色い液体に漬けてから食べているようだ。



「あの液体は、」

「この料理は醤油という液体を軽く漬けてから頂くものです」

「そうなんですね」


早速手に取り、テッカマキを口に運んだセリアの表情がぱああっと花が咲いたように綻ぶ。どうやら口に合ったらしく幸せそうに次の寿司に手を伸ばす。


「とても美味しいですよ、ジャンヌ」



口に米を付けながらそう笑うものだから、思わずクスリと笑みがこぼれる。聖杯戦争なんて忘れてしまいそうな優しい時間。そんな時間が続けばと、切に、切に願った。