――遠い、遠い、昔の記憶。


「神様、今日は羊が新たな子を生んだのです。もう少しで乳牛も幾頭か増えるのです。全て神様のお陰です、ありがとうございます神様」


教会で恭しく頭を垂れ、胸元で手を重ねて祈るように神へと感謝を注ぐ。かつてまだ幼き日のジャンヌだ。
ミサの欠席を一度たりとも有り得ずに、罪を犯せば神へ告解した信仰深い彼女は常に神と共に在ると感謝の意を忘れずにどこまでも純粋で清い少女へと育っていた。そんな彼女の姿に両親も、ドンレミの人々も好感を懐いている。

しかし彼女が13を迎えた境、運命は大きく転じる。



――フランスを救いなさい。


「フランス…を…」


ステンドグラスの鮮烈な光に照らされたジャンヌは、目を見開く。瞬時に辺りを見渡すが、人の影は一つたりとない。そして再び焦点は目の前に立つ、神の彫刻へと戻された。


「神様、貴方様のお声なのですか?」

返事はない。今はドンレミにまでは及んでいないが百年戦争の真っ最中であり、母国のフランスは窮地に立たされている。そしてそのフランスを救うべく神に選ばれたのは自分であると。もしそうであるなら、その事実がジャンヌには嬉しくて仕方なかった。

…だけど、即ち其れは命を賭すことにイコールされる。まだ神の声だと確定したわけでもない、空耳という事実も在り得る。しかしその言葉はより明確に、繰り返しジャンヌに囁かれた。

幾度も、その声は誰のものなのか考えた。穏やかで、暖かで、だけど形の無い神聖な声。そして何度目かの囁きで彼女は確信した。そしてジャンヌが17を迎えたとき、彼女は遂にその声に従いフランス救済という大望を掲げて旅立った。



『フランスが危機に陥った時、ジャンヌという名の少女がその危機からフランスを救うだろう』と、ロレーヌ地方に伝わる伝承は実現した。


本当に神の使いであるのか審判をかけられたジャンヌは、正式に使いであると証明されてフランス軍の最高司令官として軍隊を率い彼女は平穏を捨て戦場で雄々しく指揮を取る。仲間が、自分を見失わないようにと大きな旗を掲げて華の如く彼女は神の意思に従い地獄を駆け抜けた。



「ジャンヌ・ダルクは悪魔の声を聞いた。そして我がフランスを破滅へと導いた」

「待ってください!私は…っ」

「悪魔の使い、ジャンヌ・ダルクには火刑を言い渡す」


身動きの取れないように十字架に縄で括り付けられ、手足はそれが食い込んで赤黒く変色をしている。聖女と謳われた、イギリスの破滅の引き金ジャンヌ・ダルクの最期を一目見届けようと民衆は群がりざわめき立てる。

「神様…っ、神様ぁ!!」

「見苦しいぞジャンヌ・ダルク。君の聞いていた声は全て悪魔の囁き。君は救った民衆の分だけ、また別の犠牲を産んでいたのだよ」

「う、く…」


松明(たいまつ)を持った男が、一歩。また一歩とジャンヌに近づく度に人々の声は益々と煽られるように上昇していく。今始まろうとしている惨劇を、まるで幕前の落ち着きの無い子供のように猛りながら叫ぶ大人達にジャンヌは絶望を覚えた。ただ繰り返し、神様、と己の信じる存在を呼び助けを乞うた。ジャンヌの括られた木台の足元に火が灯される。


「いいぞぉ!!もっとやれー!!悪魔の使いの処刑だ!!」

「燃えろ!二度とこんな悪魔が現れないように燃やし尽くせぇ!!」


「神様ーっ!神様!」


――神様、神様。これが貴女が私に架せた運命なのですか――?幾人もの尊い命を死へと導いた代償なのですか…?黒く汚れた空気が口内へと入り込み大きく咽る。足はまるで千切れたかのような鋭く生々しい痛みが波のように押し寄せる。意識が既に朦朧としてきて、うわ言のように神様の名を叫ぶ。神様。神様。



「――ヌ、…――ンヌ…!!」

「神様、神…さまあ!」

「―ンヌ!ジャンヌ!!」

「神…さ…、…!!」



「ジャンヌ!!」



群がる民衆を掻き分けて、

凛々しい顔を歪ませて、

ただ私と同じように、私の名前を繰り返し呼ぶ姿。



「ジャンヌ!!」


「――ジ、ル…っ」


「ジャンヌ!!私は、私は貴女を信じております!」

「取り押さえろ!フランス軍だ!!」

「ジャンヌ!誰もが貴女を否定し、魔女と蔑もうとも私だけは!私だけは信じております!

貴女が成した軌跡を、貴女が守ろうとしたフランスを、誰よりも強く在ろうとした貴女を!
ジャンヌ・ダルクは正しかったと!私は信じております、貴女を最期まで信じております!!」

「…じっ……るぅ…」


涙が乾いた頬を濡らし、空気へと浸透する。かつて共に戦い、同じ夢を掲げた同志、ジル・ドレェの名前を呟きながら、ジャンヌ・ダルクという少女は19年の余りにも短い生涯に幕を下ろした。



そして、数百年の時を経て彼女は。


「おはよう、セリア」

「…おはようございます。ジャンヌ」


一人の少女の傍で、再びこの世に根を下ろした。例え其れが抉られた運命の最中であったとしても。彼女は確かに幸せを感じているだろう。