「…あの、諸泉さん?」
「はい。」
「いや、布団間違ってます。諸泉さんはあちらです。」
「寒いから丁度いいでしょう。」
「確かに丁度良い温さですし何も起きないとは思いますが、あたし一応女ですからぶん投げてもいいですか?」
「追い出し方が乱暴過ぎます!ぶん投げたら明日の甘味処は無しですよ!」
「ええー…いやでもプリンだったら兎も角、安眠には変えられません。ぶん投げます。」
「胸倉掴まないで下さい!やめっ…な、何もしません!何もしませんから!」
「…何もしないですね?雑渡さんに誓って何もしないですね?」
「いちいち組頭の名前を出すのはよくないと思うんですが…!兎に角、何もしませんから。」
「…絶対ですよ?」
「絶対です。」
「…じゃあ、お休みなさい。」
諦めたように体の力を抜いた巴が、暗闇の中で目を閉じる。小さく長い吐息に合わせて、私も詰めていた息を吐き出せば、ばくばくと忙しい鼓動が耳を支配した。
これはどっちの音なんだろうか。確かめるようと体を引き寄せれば、結局鼓動が重なってよく分からない。ただ、膝枕をされていた時よりももっとはっきり巴のにおいがして、そうキツくもない筈の金木犀の香りにくらくらする。
「何もしない何もしない何もしない何もしない何もしない…」
「念じるくらいなら向こうで寝て下さい。」
「嫌です。」
貴女が言ったんじゃないか、強い感情に従って、理性でくるんでも溢れるなら、従えと。
一線は越えない。それは私の組頭への忠誠心と意地だ。気持ちの面ではとっくに越えてしまっているのかもしれないけれど、巴が間者かもしれないとか女中だとか、そういうこと以上に、どうも私を男として認識していない危機感の薄いこいつを泣かせたくはない。刃を離した私の、せめてもの理性だ。
「………どうしてこうなったんだ…。」
そう、もはや手遅れ。後戻りはできない。
たとえ巴がくのいちでもなんでもなく、ただの人畜無害な迷子だったとしても、もし今後組頭の気が変わって、あの時の自分のように巴を元の場所へ戻してきなさいと言ったらどうするつもりだ、私。組頭の命は母親以上に絶対だというのに、それこそ子どものように駄々をこねるかもしれない自分にゾッとする。色んな意味で。
こんなことを考えている時点で、忍としては完全に失格。でも、こんなことを考えるのは今だけ。今だけなら、巴が俺を許すのだから、いい。
「…明日、楽しみですねえ。」
嗚呼、どうか明日も彼女の世話を焼き、彼女に世話を焼かれますように。神様仏様組頭、そして大国主様。
【乞い忍ぶ春】
「あ、おはよう諸泉君。昨晩は楽しめた?」
「楽しんでませんよ組頭!!!これ手付けてないのでお返しします!!」
「そうなの?折角計らってあげたのに。」
「組頭が私をどうしたいのか分かりません…!」
「それは諸泉君次第だよね。あ、おはよう、巴ちゃん。」
「おはようございます、雑渡さん!」
「今日は随分ご機嫌だね、どうしたの?」
「はい!今日は諸泉さんが甘味処に連れて行って下さるので!」
「へえ〜そうなの。良かったね〜。」
「ニヤニヤなさらないで下さい組頭…!」
「ただいま帰りました。」
「…ただいま帰りました。」
「二人ともお帰り〜ってなんで諸泉君そんな機嫌悪いの?デートだったのに。」
「デートじゃありません!これ組頭にお土産です!それでは!」
「何かあったの?巴ちゃん。」
「いや何か、諸泉さんのお知り合いの方が町にいらっしゃって。それからご機嫌斜めみたいです。」
「知り合い?誰?」
「えっと…土井は、さ…三助?さん?です。優しそうな男の人でしたよ。」
「…それ、諸泉君の前でも言った?」
「?はい。」
「巴ちゃんの男泣かせ〜。」
「泣いてませんから!!」
「えっ、え?」