今やすっかりに耳に馴染んだ波の音を聞きながら、潮風を胸一杯に吸い込む。
天気は快晴。風は上々。後方からのざわめきや名前を呼ぶ声に後ろ髪を引かれつつも、あたしは一人、エドワードさんが腰を据える甲板の定位置に進んだ。初めて彼に会った時と同じ、あの場所である。
「お待たせしました、エドワードさん。」
「随分早かったな。別れは済んだか。」
「また来るって約束しましたから、大層な別れの挨拶はしないことにしました。」
「ああ、そうだな。」
言ってエドワードさんはそっとあたしの体を持ち上げて、片膝の上に乗せる。自分で飛び乗ってもよかったのだけれど、流石に着物を着込んでハイジャンプは難しい。高度が上がって一際海風が吹き付けるその場所で、振袖が大きくはためいた。
「やっぱりトモエはそれが似合うぜ。」
「そうですか?ありがとうございます。エドワードさんも和服似合うと思うんですけど、機会があれば着て下さいね。」
「…おめェは結局、最後まで俺をオヤジと呼ばなかったなあ。」
「ああ…すみません。」
エドワードさんは事ある毎にあたしにオヤジ…父と呼ばせたがった。まあ、この船でエドワードさんをオヤジもしくは船長と呼ばない人はいなかったし、そう呼んでいいと許可が下りるのは、それだけ近しいのだと言ってくれるのと同じことで嬉しかったのだけれど、如何せん、実の父が何と言うか…いや、バレる筈はないんだけど、何かバレる気がして…父さんだし…。
「謝ることじゃねェだろう。」
「…そうですね。個人的には、エドワードさんは父親ではなく旦那様になってほしいと思ってます。」
確かに彼は理想の父親像ではあるけど、それって理想の旦那様でもあるんだよなあ。あたし的には。こんな人と夫婦になれたら絶対に幸せになれるだろうと、毎日お茶の時間の度に思っていた。エドワードさんを父と呼ばない理由には、これも一つとして入っているのかもしれない。あとなんか後ろからギャーギャー言ってる声が聞こえるんだけど…気にしないことにしよう。
…ていうか、あれ?エドワードさんから珍しく返事が返って来ない。気付いて顔を目一杯上に上げれば、きょとんとした顔とかち合った。ん?
「どうしましたエドワードさん…って、ああ、大丈夫ですよ。色んな意味で相手にはされないだろうと分かってての発言ですから。」
「…グララララ!!俺がもう少し若くて小さけりゃ、喜んで相手にしてたに違いねェ!」
「エドワードさんが相手にするって言うと卑猥に聞こえます。」
「グラララ!まあ覚悟はしておくんだな。」
まったく、こんな感じで冗談にも乗ってくれるからいい人なんだよ、ほんと。あと後ろが更にうるさいです。…何故?
そんな冗談を言っている内に、目の前に島…のようなものが見えてきた。が、近くに寄ればそれは島ではなく岩。縦幅も横幅もかなり大きな黒い岩だ。もしかしたら島が海に沈んでいるのかもしれない、その周りにも足場のごとく点々と同じ岩が顔を出しているし…。
それにしても……何だろう、ここ。何か…。
「ここが目的の場所だ。」
巨大な岩が並ぶずっと手前で、碇を降ろすように指示を出したエドワードさんは、静かにあたしにそう告げた。ここが、エドワードさんが言っていた心当たりのある場所─以前海戦をした場所。
暫くお世話になっていて分かったが、この船では違う船から喧嘩をけしかけられることがあっても、船長であるエドワードさんが動くことはまずない。それは、エドワードさんが動く以前に隊長さんを初め、周りの船員の方が強いのが大きな理由だ。大抵は状況に合わせて隊ごとに動き、事を収める。
それが通常パターンだという白ひげ海賊団だけれど、割と最近にエドワードさんが出た海戦があったらしい。それがここでの海戦だったということだ。
勿論、あたしはこの場所を知らないし、あたしが船に現れたのも海戦から大分経ってからと聞いた。その証拠に、ここまで戻る為にかなりの日数がかかっている。
それでも迷いなくこの場所を指示したエドワードさんの本意を、あたしは知らないままここに来た。
「エドワードさんの心当たりって、何だったんですか?」
目的地に着いてから話す、と言ったエドワードさんとの約束を守って、ようやく最大の疑問を口にする。彼は正面を向いたまま、少し間を置いてから答えた。
「俺の能力を知ってるか。」
「え、いえ。…え!?エドワードさんも悪魔の実食べた人なんですか!?」
「ああ。」
「知らなかった…。」
「そうだろうな。俺が恐れられる所以だ。」
「…皆さん色んな能力を持ってましたけど、恐いと思ったことはありませんよ。」
「ああ、分かってる。」
「…本当に分かってます?」
こんなことを言うと、オヤジを疑うのかてめえコノヤロウとエースさんにどやされそうだけど、今はエドワードさんの意向で船員さんはみんな甲板の下にいるので恐いものはない。それに、疑ってるわけじゃなくて、どちらかと言えば心配しているつもりなのだ。あたしとしては。
だって、完璧な人なんてこの世にいない。し、いなくていい。
大勢の息子さん達の頼れるオヤジで、海賊の中の大海賊で、怖いもの無しの『白ひげ』で、あたしを助けてくれた心の広い船長で…。エドワードさんは本当に非の打ち所のない素晴らしい人柄の方だ。でも、もしもあたしがエドワードさんだったとして、そんな風に思われていたら少し苦しい。
そりゃあ、エドワードさんはプレッシャーに圧し負けるような人ではないだろうけど、弱音を吐きたい時は誰だってある。親しい人を疑う時だってある。人間なんだから、当然じゃないか。彼を尊敬する度に、常々そう思った。大丈夫ですか、と、何度訊きかけたか分からない。
男の人のプライドなんて、女で子どものあたしは知らないんです。だからただの人間として、言わせて頂きましょう。
「分かる筈ないですよ。あたし、エドワードさんの能力を見せてもらってません。恐がるだろうと思ってもらって構わないです。当たり前です。」
「…グララ、」
「この船で仲良くやってもらえるかとか嫌われたかもしれないとか、そういうことで沢山ご心配おかけましたけど、その分ちゃんと身になってますよ。元々が図太い神経してますし、旦那様にしたいとまで言った人に今更多少疑われたって挫けません。大丈夫です。」
「…あァ。」
「…あたしにとってエドワードさんは、オヤジでも『白ひげ』でもなくて、エドワードさんなんですからね!」
思わず大きくなった声も、エドワードさんサイズには大した音に聞こえていないかもしれない。でもこの人は、どんなに小さな声でも掬い上げて、その感情を察してくれる。少なくとも、あたしの今の気持ちは伝わった筈だ。
それをどう思うのかは、あたしには知り得ないことだけれど…どうかそんなことを思っている人間が、貴方の傍に一人はいることを、認めていて欲しい。
「…おめェは、やっぱり女だな。」
「…迷惑な発言だったらすみません。もう帰るので勘弁して下さい。」
「オイオイ、ちっとも身になってねェじゃねェか。」
「え?」
「自分の言葉を卑下するんじゃねえ。おめェが口にする言葉は、おめェが心底考えて、本気で出した言葉だろう。それで相手が傷付くか嫌がるか、悩んだ上で伝えたい言葉なんだろう。だからおめェの言葉は響くんだ、トモエ。何も特別なことじゃねェ。馬鹿正直に向かってくる奴は、女だろうが男だろうか嫌いじゃねェぜ。」
「…それは、あたしもです。」
「だがまァ、それがおめェみたいないい女だと、また厄介だが。」
………うん?何か今…あたしには分不相応な言葉がくっついてた気がするんですけども?
いやでも、そこを突っ込むと話が進まなそうな気がするので敢えて沈黙を守ろう。何せ最後に付いていた“厄介”の言葉の方が気になる。と、ツッコミ衝動をグッと抑え込んでエドワードさんを見ると、彼はちらりと目だけでこちらを見て、不敵に笑んで一言。
「惚れちまうだろう。」
……………。
「………は、…えー……っと…?……ありがとう、ございます?」
「ククク、嘘だと思ってやがるな?」
「いや…海賊なんで嘘は吐きますよね。ていうか今のは嘘っていうかお世辞ですよね。分かります。」
「ならおめェは世辞で俺を旦那にしてェと言ったのか?」
「いやそれは、本音です、けど…いやいやいやそれ言ったらエドワードさん何人に惚れるつもりですか!あんなにエドワードさん好みのナースさんを集めておいて!一夫多妻は反対です!」
「ナース達は俺が集めたんじゃねェ。ドクターに言え。それに、俺も一夫多妻は面白くねェな。大勢の内の一人として想われればそれでいいと思うような弱気な女に興味はねェ。息子は何人いてもいいもんだが、惚れた女は一人で充分だ。グララララ!」
えっ、ちょっ、どう反応すればいいんだこれ。どうすればいいんだあたし!からかわれているんだとは思うけど、さっきの話の流れ的にこれ以上否定してもいいものだろうか!?そしてさっきから一切目を逸らされずに言われてるのがまた効果があるって言うか…!!流石の年の功ですよエドワードさん…!!
「…っていうか話がズレていってる!エドワードさんの心当たりは何ですかって話でしたよね!?」
「年甲斐もなく口説いてるってのに、はぐらかすのか?悪い女だな。」
「は、はぐらかしてません…!ほら!あたしが先に旦那様にしたいって言ったんですから、成立してますし!」
「あァ、それは確かにそうだ。成立したからにはトモエ、帰ってから浮気すんじゃねェぞ。」
「えっ、は、はい…。」
あれっ、勢いに圧されて返事しちゃったけど、あたし既にリボーンの愛人してるんだった。どうしよう…って、冗談に対して真面目に考え過ぎだろうか。だってエドワードさん、口は笑ってるのに目が笑ってないんですよ!迫真の演技にしても目がマジ過ぎて怖いです!あと不覚にもときめくので止めて下さい!ご自分の魅力を理解して!
予想外の展開にオロオロしていると、エドワードさんはいつかのように「リスみてェだな。」と大きな手であたしを撫でる。それを合図にいつものエドワードさんが戻ってきた気がして、あたしはようやく一息吐いた。
「…で、答えてもらえますか?」
「ああ、女房に隠し事はできねェからな。」
「まだ引っ張る…!!」
「グラララ、怒るんじゃねェ、傷付くだろう。」
「…続きをどうぞ。」
「俺の心当たりはこの岩の島だ。」
「…これって、やっぱり島なんですか?」
「ああ、いつ沈んだのか知らねェが、岩だけが海面に出てるんだ。」
「あ、やっぱり…。」
「だが、近海の島では、この岩は木のように伸びていると云われている。」
「岩が?ああ、でもこの海なら不思議じゃないのか…。」
「それだけじゃねェ。この場所では昔から怪異が起きると有名らしい。」
「…へえ。」
「実際、俺達が海戦をしたその時にも起こった。起こったどころじゃねェか。相手をしていた海賊船自体が消えたんだからな。」
「え。」
消えた?消えたって…何か妙な話になってきてますが…このしっくりくる感じ、嫌な予感が…。
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