「あっ…!?」



ぐらり、目の前で不自然に傾いた体が柵に凭れて、中心を失った上半身が千鳥足をさらう。視界から消える直前の彼の目は、完全に焦点が定まってなかった。ああ、駄目。落ちちゃ。



「エースさん!!!」



二度目に伸ばした手がまた空を切った瞬間、息が止まるほど背筋が冷えた。マルコさんの言っていた“カナヅチ”の言葉が頭に響いて、あたしの体を柵から押し出す。

着水する前にエースさんが目を覚ますことを期待したけど、眼下の体は一足早く大きな音を立てて水に沈んだ。飛沫を浴びながらも、その姿を見失わないように目を凝らす。二度目の水音が響く。



「ぷはっ!!エースさっ…!エースさん!!しっかりして下さい!!」



何とか彼の体を捕まえて、殆ど沈みながらも海面に顔を出す。っあああ危なかった!!海が暗すぎて見失う所だった!!!

しかしはっきり言ってまだ生命の危機は続いている。エースさんは目を覚まさないし、海は思った以上に冷たいし、あたしは特別泳ぎが得意でもないのに着衣状態の上、気絶している人間を抱えている。普通に考えて絶望的な状況の中、気合いで船の側面に垂れているロープに掴まったあたしを褒めて欲しい。ここで置き去りにされたら死ぬ自信があるよ心から!!!



「っ…誰かそこに居ませんかー!!?」



昼間だったら必ず誰かしらが居て助けてくれたに違いないけれど、今は夜でしかも宴会中だ。どうしよう、全く反応がない。いやこうなったら自分で上がるしかないんだけどね!



「エースさん…!絶対に落ちないで下さいね…!!」



返事のない体に不安を掻き立てられながらも、一度海に潜ってエースさんの体を抱え直す。左肩に担ぎ上げるように腕を回して腰のベルトを掴み、力一杯ロープに体を引き寄せた。



「、くっ…!」



ただでさえ筋肉質のエースさんが重いというのに、水を吸い込んだ自分の体までもが重い。エースさんが半裸で良かったと思ったのはこれが初めてだよ!!掴んだロープが編み目状になっていて上りやすいのが救いだけれど、二人分の体重+αを右手一本は…流石に、キツい…!でも絶対放すものか…!!こんな間抜けな人殺しなんて絶対にごめんですから…っ!!!

手のひらに食い込む縄の感覚が、段々麻痺して無くなってくる。息が詰まる。体が冷たいのか熱いのかもう分からない。あと、あと、もう少し。



「おう、トモエ。宴の端で随分楽しいことしてるじゃねェか。ゼハハハハ!!」

「あ、」



目指す船の柵の向こう、船の灯りでぼんやり明るいその場所に、不意に大きな影がかかる。はっきり姿は見えないけれど、声と笑い方ですぐに判った。あれは、



「ティーチ、さ…っわ!?」

「ゼハハハ!なんだ、エースと心中か?」

「違い、ます…あと、ありがとう、ございます…。」



引き上げて頂いて…と、止めどなく切れる息継ぎの間にお礼を言うと、あたしの体をエースさんごと持ち上げたままの大きな影─ティーチさんは、いつもの独特な笑い方であたし達の状況を笑い飛ばした。

壁のように大きな体に、バンダナ、伸ばしっぱなしの黒髪…うん、間違い無くティーチさんだ。っていうか笑い事じゃないんですけど…。



「…って、そうだエースさん!!ティーチさん!エースさん息してます!?」

「息?してなさそうだな。」

「ちゃんと見て下さい!」



まず降ろしてくれませんか!と慌てて叫べば、どすりとその場に降ろされる。肩に乗せたままだったエースさんを床に寝かすも、やはりピクリとも動かない。どうかいつもみたいに眠ってるだけでありますように…!!



「悪魔の実の能力者って、海に浸かるとカナヅチになるだけですよね?死んじゃったりしませんよね?」

「力が抜けて、能力が使えなくなるだけで死にゃしねェ。まあ助ける奴がなきゃ、結果的に溺死か水没死だ!ゼハハハ!」

「笑い事じゃないですってば!!エースさん!返事して下さいエースさんー!!」

「ゼハハ、こりゃ酒と海水の飲み過ぎだ。どいてろ。」



恐ろしいことを言われて半泣きで呼びかけるあたしを、ティーチさんが何か言って後ろからどかす。よろけて後ろにたたらを踏んでいるその間に、彼は片足をエースさんの胃を目掛けて踏み下ろした。えっ。



「ぐえっ!?げはっ!!!」

「ほら、もう一回だ。」

「うぐっ…げほっ!!!」

「ティーチさん!その辺で!」



大量に水を吐きつつ意識を戻したエースさんにホッとしつつも、あまりに乱暴な水の吐かせ方にティーチさんを揺すって止める。いくらエースさんが素晴らしい腹筋をお持ちでもそれはちょっとどうかと!

しかしそのお陰あって、エースさんは完璧に意識を取り戻した。閉じっぱなしだった瞼も上がり、眉を顰めてティーチさんを見上げる。



「な、…?げほっ、…ティーチ?」

「ゼハハハ!海に還るにはまだ早ェだろ。トモエに礼を言っとくんだな。」

「ト、モエ…?あっ…!」

「エースさん…無事でよかった…!!ごめんなさいあたしが無理に飲ませたばっかりに…っ!!」

「!?お、おい!泣くな!!死ぬわけねェだろ馬鹿!!」

「死ぬとこだったんですってば…!!」

「死なねェつってんだ!!」

「そうですか…。」



意識も無かったのにその自信は一体何処から…。しかし今それを突っ込むのは野暮だろう。きっと心配してくれている。滴る海水と混ざって落ちる涙を、かなり乱暴に指で拭われているのも我慢しよう。

ああ、でも、よかった。本当によかった…。安心すれば安心するほど涙が止まらない。



「な、泣くなって…!俺が悪かった!な?」

「……エー…ス…。」

「いっ!?」

「え、…あ。」

「おお、鬼が来た。」



ティーチさんのおかしそうな色を含んだ言葉を皮切りに、いつ現れたのか、その鬼から──っていうか…イゾウさん…から、正に鬼のような乱射発砲が放たれた。

…あー、いつも思うけど、リボーンと向かい合ってこれやったら互角になるのかなあ…。



「おい止めろイゾウ!!違う!!違うんだって!!」

「何が違うんだ何が理由でも巴泣かせた奴には制裁だエースウゥウ!!!」

「だからって弾に覇気纏わせるんじゃねえよ!!、くそっ!」

「あっ、待っ………行っちゃいましたね…。」

「ゼハハハ、ああ、行ったな。」



イゾウさんは何かのレーダーでも付いているんだろうか…タイミングが良いと言うか悪いと言うか…。

物騒な音と共に騒がしい気配が遠ざかり、そこではたと気付く。ああ、あたしまだティーチさんにお礼言ってなかった。



「ティーチさん、遅くなりましたが、引き上げてもらってありがとうございました。」

「いいってことよ。」

「結局眺めたままで引き上げてもらえないんだと思ってたので、本当に助かりましたよ。」

「…ゼハハ!バレてたか!」

「バレてたか!じゃないですって…。」



そう、実はティーチさん、落ちた時にはすぐ近くに居た。いつから居たかは定かではないけれど、エースさんが落ちる寸前、その背後に、闇に紛れた姿を見たのだ。

普通、カナヅチの仲間が海に落ちたら助けるものだと思うけど…一体理由は何なのかティーチさんは助けに来なかった。そしてあたしも、ティーチさんは助けには来ないと理由もないのに確信をしていたのだから、何というか…。うん、エースさんには言わないでおこう。

そうは言っても、別にティーチさんがエースさんを嫌いと言うわけじゃないだろう。一緒にいる所はよく見るし、外面は仲が良くても実は腹の底ではお互いに…なんてそんな女同士みたいなドロドロは、海賊に限ってないのだ。この人達は、気に入らなかったら口にして殴り合えばいい話って感じだし(例:イゾウさん)。

それじゃなくても、あたしはいつも思う。白ひげ海賊団の中にいて、違和感も何もない筈の彼を見て思うのだ。


ティーチさんが見ているものは、この船の誰とも違う。





「ゼハハ、悪気は無いんだ。エースはこんなところで死ぬ筈がねえからな。」

「…随分確信的なんですね。」

「おれの知るところじゃねえさ。運命が殺しやしねえんだ。おめぇはどうなるか分からなかったがな。」

「あたしは見殺しなんですね。カナヅチがなければエースさんより遥かにひ弱なのに…悲しいことです。」

「ゼハハハ!大の男を抱えて這い上がってきた奴が何言ってやがる!」

「必死にもなれば火事場の馬鹿力も出ます。」

「結局、運命は今、エースもおめェも殺さなかったんだ。帰る前に死ななくて良かった、それで良しとしなきゃ贅沢ってもんだぜ。折角生き延びたんだ、精々楽しんで帰れよ。」



上から押し付けるようにぐしゃぐしゃ頭を撫でられながら、あたしは『運命』という言葉がティーチさんから二度も出たことを、不思議に思わないことを不思議がっていた。

そりゃあ、海賊だって信心深い人はいる。神様を信じている人だっていた。けど、ティーチさんは見た目から豪快で、そういうことには縁遠そうな雰囲気だ。人を見かけで判断するなと言われそうだけど、見えるものは見える。運命なんて蹴り散らかして、ひたすらに今を楽しむ人見える、のに。





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