改めて考えると、自身がこの家の前に立ったことはなかったかもしれない。
そんな事を今更ながらに思いながら、俯いて嗚咽を漏らす女の頭を黙って眺めた。間合いに居るには居るが、密着と言うには微妙な空間が在るこの距離で、俺はどういう返答を求められている。道中、さぞ阿呆面を晒して驚くのだろうと予想して退屈を潰していたが、何故こうなった。何で泣く。
「……ゆっ、ゆ、う霊に、なっ、て、化けて、…出たのかとっ…!」
「…馬鹿か。」
どんな理由を口にするかと思えば、突拍子もないことを言い出した。…いや、今の状況とコイツであることを含めば、そう至っても当然なのか。
今は日本の午前五時。この時刻にコイツが修練の為に家を出るということは、イタリアに滞在していた時に把握済みだ。
雪もちらつく真冬の早朝は夜闇に埋もれたままで、そんな外へと出た途端、まずこの場所に有り得ない人間を目の前にしたら、訳の分からない予想を引っ張り出してきても仕方がないのかもしれない。
…だから目が合った途端、いきなりベタベタと体を触ってきたのか。…出会い頭に悲鳴を上げなかっただけ肝が据わっていたのだと思うことにする。だが、泣くほどビビることでもない。
「っ…朝っぱら、から!心臓に悪いこと、止めて、下さい…!!」
「…勝手にビビって泣いたんだろうが。」
「家出た途端に真っ暗闇に人が立ってれば誰だってビビりますよ!!それに、大、体っ…!」
「……。」
「…し、ん、じゃった、かと…思って…!!」
やはり馬鹿か。馬鹿だ。俺が死んでお前に泣く理由があるのか。そんなものは一切無い。寝ぼけているのか。こいつの周りの人間と見間違っているのか。俺の姿を俺じゃない誰かに重ねているのか。
嗚咽と共にまた何度か跳ね上がっていた肩が、少しずつ動きを緩める。乱暴に目元を拭う動作を見せたかと思うと、頑なに顔を隠していた頭が持ち上がった。
「ザンザスさんが生きてて良かったです…。」
───だから、俺はどういう返答を求められているんだ。
答えを探すのも面倒で、それに時間をかけることなく思考の中から疑問を放る。そうすれば今度は、先程から保たれたままの微妙な距離がもどかしく感じてきた。…何でだ。
どれもこれも口に出す事でもなく、闇の中でも色を失わない茶の瞳と見つめ合う沈黙が続く。その内、ふと無意識に伸ばしかけた腕の先─手に持っていた紙袋が音を立てたことによって、それは破れた。
「あれ…ザンザスさんが荷物持ってるとか珍しい…。」
「……。」
「というか、ザンザスさんどうしたんですか?こんな朝早くからうちに来るとか、何かありました?いつも用事があってもスクアーロさん達をよこすから、ザンザスさん本人がいるなんて有り得なくてこんなにビックリしたんですよ?ちゃんと説明して…わっ!?」
泣き止んだかと思えばいつもの調子で質問攻めしてくるガキは、袋を気にしてか更に二、三歩後ろに下がって、俺の手元を凝視する。それが癇に障って、空いている片手で腕を掴んで引き寄せるが、こういう時に限って反応が良い小さな体は、また微妙な距離で足を踏ん張る。
ああ、苛々する。そんなに袋が気になるなら勝手に見ろと口にする代わりに袋を顔面に投げつけた。
「った!?いやもう何なんですかさっきから!?何ですかこの袋?」
「てめえが持って来いと言ったんだろう。」
「え?」
「…cioccolato.」
日本語では読み方が違ったような気もするが、通じないこともないだろう。何せコイツは以前、バレンタインデーに合わせてそれをこちらに送ってきている。そして昨年、日本の慣習に倣って翌月の3/14、返礼を持って行かせたルッスーリアは、要らん言伝を受けて帰ってきた。
『律儀にお返ししてくれたって喜んでたわよお、ボス〜。でもって、珍しくワガママも言ってたわあ。』
『…ワガママ?』
『偶にはイタリア人らしく、ボスの方から送ってくれませんか?ですって〜。』
『身の程知らずな…!!ボスから返礼を受けることが既に身に余る光栄だということを自覚もせず…!!』
『まあ、世界的に見ればバレンタインデーに物を贈るのは男性の方が主流だからね。』
『恋人じゃなくて無差別で贈りまくってる時点で日本式のくせにな。』
『ハッ!贈り返してやってること自体、充分らしくねえんだあ。やってやりゃあいいじゃねえかあボスさんよぉぶっ!!!』
『懲りないわねぇスクアーロは。』
記憶に残すのも無駄な記憶を再生している間に、袋を両手で大事そうに抱え直したガキは、今度こそ想像通り間抜けな面で俺を見上げた。こいつのことだ、どうせ自分の無責任な発言なんて忘れていたに違いない。
しかし、次の反応はまた予想を裏切られる。口癖のように謝るのでもなく、畏まった礼を言うでもなく、再び合った瞳が水の膜を湛える。
「…何度泣けば気が済む。」
「い、いや、これは…今涙腺が弛んでるからで…ああ、でも、あの、嬉しいです。」
「……。」
「わざわざ来て下さったのも嬉しいですけど、一年前の伝言を覚えていてくれたことが一番嬉しいですよ。」
今日は朝からいいバレンタインになりそうです、と、一瞬前まで大泣きしていた奴が言う言葉とは思えない台詞を紡ぐ女は、何故か朗らかに夜闇を仰ぐ。つられて目線を空に移すが、日の出にはまだ遠い。
「お忙しいところに来て下さったから、こんな妙な時間だったんですね。今からトンボ帰りなんですか?スクアーロさん達は今日は不在ですか?頂けると思わなかったので、今年もバレンタインチョコ送っちゃったんですよ。もう届いてますかね。ていうかこれ中身見ても、うぶ。」
今度こそ完全にいつも通りに─いや、いつもより些かテンションが上がったように話し出す姿に、俺は漸く足を動かした。そういえば、こいつが出てきて暫く経つが、この場から一歩も動いていなかった気がする。そんな事はどうでもいいと、柔らかく潰れる体に回した腕に、後ろ頭に添えた手に、力を込めてから放す。踵を返す。背後で困惑しているであろう人間を置き去りにして歩き出す。
「ザ、」
「それ以上何か言ったら殺す。」
理不尽だと、自分でも思う。しかしこいつも触ってきたんだからお互い様だ。それに俺はシャツも濡らされた。濡れた胸元に指を伸ばせば、思った以上に涙の染みが広がっている。
だがこれは、癇には障らない。
「ザンザスさん!」
「………。」
「あああ殺されたいわけじゃないので怖い顔して振り返らないで下さい!!じゃなくて…!あ、ありがとうございました!」
「変態か。」
「え!?あっ、ハグじゃなくてチョコにですよ!?」
「えーっ!!なになにボスがハグしたのっ!?」
「ヒューヒュー流石ボスー。」
「へえ、随分とサービスしたんだね。」
「きっさまああああ!!!!」
「ハッ!わざわざ一人で行くと思えば随分ムッツリ臭えことしてんじゃねえかボスさんよお!!」
「あ…皆さん来てたんですか。」
「アラ?スクアーロに何も飛んで来ないわ?」
「…それが望みならてめえら全員にまとめて投げてやる。」
「ザンザスさん!それ電柱!!」
もう二度と、この日に此処には来ない。
【二月の空は忙しい】
ハッピーバレンタイン2013でした。