「今気付いたんですが。」
「はい?」
「バレンタインどスルーされてませんか。」
「え?はい。」
至極当然と言わんばかりの素面で、巴さんは頷いた。時は三月の頭。年度末で何かと忙しい今日この頃、日に一度あるかないかの二人きりの会話を束の間楽しんでいると、ふと前述の事実に気がついてしまった。毎度のことながら、本当に交際しているのかよく分からなくなることが未だあるというのはどうなのか。
「閻魔庁はバレンタインデー禁止と聞いていたので。」
「……。」
「あれですよね、ハニートラップがあったとかで、鬼灯さんが禁止したと聞、い…?」
「……。」
「…てたんですが、あの、違いました?」
「…貴女は官庁職員じゃないじゃないですか。」
「や、でも、鬼灯さんの部下みたいなものですし、」
「……。」
「お…お菓子はよく、試食の体で食べてもらってますしね。」
「…では欧米様式で、私から何か。」
「いやいいですいいです!よっぽど変な誤解になりかねませんから!」
「別に誤解でもないんですがね。」
こういう時、公に出来ない立場というのは煩わしい。たとえそれが真っ当な感情であり、周知の事実だとしても、お互い穏やかにこの関係を続けるには、ある程度の節度がいるのは、勿論解ってはいる。解ってはいるが、彼女の物分かりが良すぎるのも考えものである。
「鬼灯さんは、結構イベント好きですよね。」
「…まあ、嫌いではないですよ。」
「開催者側として。」
「よく分かってらっしゃる。」
本当のことを言うのは、まだ躊躇われる。
私はただ、勿体無いと思ったのだ。あと何度、貴女の恋人としてこういったイベントを重ねられるか。たかが一度、されど一度。わざわざ己で禁止した筈の話題を振った理由は、ただそれが気掛かりだったからだ。
それを正直に言えば、彼女はどう思うだろうか。成る程確かにと、賛同してくれるかもしれない。しかし、もしかしたら、気付いてしまうかもしれない。何千年も生きる鬼と、数十年しか生きない人間との感覚の差を。
例えば、彼女の兄が六十年後に地獄に来るとして、単純計算で六十回はその機会がある。恐らく、彼女は六十回もある、と感じることだろう。
しかし鬼の私は、六十回しか、と感じるのだ。自分の歳を考えると、それはほんの僅かな回数で、改めて彼女といられる時が有限であると思い知らされる。
他人との関係に無限がないことも、何もかも思い通りにはいかないことも、充分に理解している。その癖、時折傲慢が顔を出す。神も鬼も人も、それは変わらない。だからこそ、自制は均衡の為に必要不可欠だ。
埋めることのできない根本的な感覚の差を、彼女がどうすることもできないこの不安を、押し付ける気は毛頭ない。というわけで、私はこの話題を終え、彼女と穏やかに会話を続けることを選んだ。
の、だが、
「おはようございます。お届けものに上がりました。」
「…はて、配達業はとっくに私が辞めさせた筈ですが。」
「そうですね、今日は個人的なお届けです。」
翌日、随分久しぶりに聞いた挨拶に懐かしさすら感じていると、珍しく朝一に執務室に顔を出した巴さんは、いつものように穏やかにこちらに歩み寄った。その手には、‘お届けもの’らしき、白い封筒。
「昨日の話の続きですが、よかったらこれ、受け取って下さい。遅くなりましたが、バレンタインもどきです。」
こんなものしか用意できませんでしたけど。と、若干目を泳がせながら封筒を差し出す彼女の手からそれを受け取り、まじまじと眺める。別段飾り気があるわけでもなく、よく見る変哲のない白い封筒が、やけに眩しく、特別なものに見えた。
「巴さん。」
「はい。」
「少々自惚れてもいいですか。」
「どうぞ。」
「これは所謂ところの恋文ですか。」
「はあ、まあ、そんなところです。はい。」
「……。」
「……。」
「……。」
「…お菓子は普段食べてもらってますし、賄賂にならないものだと、これくらいかなあ、と。」
「ええ、はい。」
「じゃあ、気が向いた時にでも見て下」
「今読むのでそこにいて下さい。」
「手紙の意味が全くなくなるんですけど」
「いて下さい。」
「はい…。」
開いた手紙は、現代人らしい横書きの文字で綴られていた。彼女の書き文字を見るのは、思えば殆ど無かったような気がする。それが思いがけず手に入っただけでも得をした気分だが、それどころか、この手紙の内容も、想いも、言ってしまえば彼女自身も、全て私のものなのだ。素直にそう思える。鬼と人の差なぞ、些細なことなのだ、とも。
まったく、本当に彼女は、他人の満たし方を心得ている。気持ちには気持ちで。声には声で。声に出来ない不安には、声以外の安堵で。
そうして、文字は時に、声より深く染み入る。
「巴さん。」
「何でしょうか。」
「文通しましょう。」
「…………いやです…。」
ちなみに手紙の内容だが、それは私と彼女だけの物であるので、何があろうと他言しない自信がある。だから、安心して文通してくれて構わないのだが。もしくは…
しかし更に提案する前に、色々限界であったらしい巴さんは、有無を言わさず退室してしまった。機嫌を損ねてしまったわけではないことは分かっているので、今度は引き留めずに送り出す。
「…さて、」
取り敢えずは、近付く三月十四日、この手紙に見合うだけの何を返すか、それを考えることが先決だろう。
【春を先取るは】
「どうぞ、篁さんに見立ててもらいました。」
「…ワアー、いい和紙と筆…。」
「古典的ですけど、文のやり取りはいいですよ〜夫婦円満の秘訣ですよ〜。」
「篁さんもこう言ってます。」
「…参考にします。」
「交換日記でもいいです。」
「こ、交換日記…!」