「ありがとうございます、アントニオさん。そう言ってもらえて嬉しいです。」
「はは、相変わらず大袈裟だな。」
「いやほんと、いつも色々話しを聞いてもらえて、有り難かったです。お陰様でちょっとだけ自信を持って日本に帰れますよ。」
「おう!堂々と胸張って、…………え?」
「はい。」
「か、帰る?日本に?」
「はい、留学期間満了で、三日後に経ちます。」
「……。」
「まさか鼻血の縁から、こんなに長い間付き合いになるとは思いませんでしたね。本当にお世話になりました。また遊びに来ます。」
「……。」
「……。」
…うん?あれ?反応がないぞ?
いつもあたしのことを子ども扱いするアントニオさんのことだから、きっと娘が離れていくような気持ちで、頑張れよ、と言って下さるものだと思っていたのに、真顔で固まるとはこれ如何に。
…とりあえず、結局今まで一度も支払わせてもらったことのないお会計を、今の内に払ってしまうことにしようそうしよう。歳の差があるのを理由に、いっつもアントニオさんが払ってくれてたからなあ…。流石に最後くらいは、命の恩人に感謝の気持ちを込めてこの位はいいでしょう。
「あ、店員さん、すみません、あ、わっ!?」
彼の真後ろに見えた、店員さんに向かって挙げようした手が、びたんとテーブルに叩きつけられた。
唐突過ぎて、店員さんと目をぱちくりさせていると、アントニオさんは振り返りもせずに後ろ手を振る。それが不要の合図だと読み取った店員さんは、呆気にとられつつもカウンターに戻っていった。あの何とも言えない表情は、きっとばっちり見ていただろう、アントニオさんが勢いよくあたしの手首を掴んでねじ伏せた有り様を。
「…っていうか最後くらい払わせてくれたっていいじゃないですか!もう!」
「…勝手に最後なんて言うな。」
「…アントニオさん?」
「最後なんて言うな。」
「……あの、」
「最後なんて、言うなよ。」
再び顔を伏せてしまったアントニオさんが、譫言みたいに繰り返す。
潰れそうなほど握り締められる手首を見ながら、その言葉を噛み締めるのは容易ではなかった。
「…アントニオさん。」
手首、痛いですよ。やっぱり酔っ払ってるんじゃないですか、アントニオさん。
…別れを惜しんでくれているのだろうか。それにしてはパフォーマンスが激しい。手首でドクドク脈打つ音を共有するこの状況に、変に緊張してきた。…い、今更ですけどこれは一体何なんですかアントニオさん…!
「ええと、その、」
「行くな。」
「は」
「行くな、巴。」
あれ、ああ、何だろうこれは。幻聴?そうか、幻聴ですよね。パタリと水の粒がテーブルに落ちた音も幻聴ですよね。まさか鼻血じゃないですよね、あたしじゃあるまいし。ああ、頭が痛くなってきたぞ。
「行くな。」
店の照明に当たって、淡く光るその瞳が、異様に色気を含んでいる気がして、何かいけないもの見てしまった気分になったあたしは、とっさに目を反らす。
その瞬間に手首を引かれ、テーブルを滑った摩擦で掌が痛い。いやそれどころじゃない。情けなく突っ伏してます。
ぱたぽた、ぱたり。ああもう、もっと間近でさっきの音が。リアルな幻聴じゃないですか、まったく。アントニオさんたら酔ってる酔ってる。
「……ここをあたしに奢らせてくれたら、考えます…。」
お酒の入った人の言葉は信じないのが鉄則だというのに、何を口走っちゃってるんだこの唇は。そして何故、掴んだ腕に手のひらに、ちゅーしますか、アントニオさん。貴方の中のあたしの立ち位置がよく分からなくなってきたんですけど、そんなに相談相手が欲しいんですか?友達いないんですか?
いやいや、酔っ払いにまともな答えを求める方が間違っている。正気じゃない今のこの人に釣られちゃあ駄目だ。
状況整理が追い付かず、重たい頭を何とか持ち上げ、助けを求めて投げた視線の先は、暗やむ窓。
──うん、勘弁してくれないかな、目眩がします。
それならお前はどうなんだと、這いよる夜闇が笑ったような。群青、紺碧、瑠璃の色。重苦しくも美しいそのコントラストは、アントニオさんが背負う何かなんろうか、なんて、あたしは知ったかぶりの子ども。
にやり、隠さない口元が目に入れば、南無三。大人の罠に嵌められて、突破口は見つからない。
:核心はお噤みに
原作知識皆無恐れ入ります…。