「…旦那ぁ〜。いい加減、血ぃ止まった?」
「…っお前はいつまでそちらにおるのだ!!」
「あの、真田さん本当に大丈夫ですか?まだ出血してます?」
「あー大丈夫大丈夫、巴ちゃんはゆっくり浸かってなさいって。じゃないと余計止まんないからさあ。旦那の鼻血。」
「ぅううう…!!!」
「はいはい、ほら、力むと余計止まんないよ。」
まったくもう…目的地も間近ってところで、とんでもない声量で名前を呼ばれてすっ飛んでみたら何てことはない。そこにあったのは、馬の上でだばだば鼻血を出す旦那と、慌てる巴ちゃんの図だけだった。
何事かと思ったら…と、脱力しつつも、とりあえず旦那に手拭いを渡して、巴ちゃんは馬から下りてもらい、そこからは俺が馬を引いてそのまま歩いていった。お陰で到着は若干遅れたけど、一応目的は果たしているからもういいや。寧ろよくあそこまで逃げずに運んであげたよ旦那、成長したねぇ…。
「でも最初に鼻血出さないようにって言った筈だけど。」
「そっ某とて好きで出してるわけではないっ!!!」
「大丈夫ですよ真田さん、若い頃は鼻血出やすいらしいですよ。歳をとるにつれて滅多なことでは出なくなるらしいです。」
「…ううぅう…!!」
「巴ちゃん、それ慰めになってないからね。」
「えっ。」
言えば、彼女はまた気遣わしげに湯から肩を出す。それを片手を振ることで制すると、常に下がり気味の眉が更に下がった。…まあ、茂みから唸り声しか返ってこなけりゃ、当然の反応かもしれないけど。けど、ねえ?
「いい加減、俺様に対して恥じらいなく肌見せるの止めなよね?いくら手当てやらなんやらで飽きるほど見てるとは言えさあ。」
「佐助え!!」
「すみません、猿飛さんは何だかお母さん的雰囲気を感じるもので。」
「あーらら、そんな事言っちゃっていいの?生憎俺様付いてるもんは付いてるし、旦那さえいなけりゃサガに従って襲ってたかもよ?」
「佐助ええ!!!」
「忍の方は理由も無しにそういうことはしませんから。かすがさんも認める人です、大丈夫ですよ。」
「あのねえ…今誰の話してるか分かってる?」
「はい?」
「無視をするな佐助えぇ…!!」
あーあー茂みが何か喋ってるけど、この際無視無視。にしても巴ちゃんってば何なのかねえ…ここでかすがの名前出すとか…。
兎に角、俺様の軽口と、逐一入る元気過ぎるツッコミに安心したのか、彼女はようやく背中を向けて、浅くも深くもない吐息を漏らす。
絶え間なく上がる湯煙を揺らすのは、彼女の身じろぎ唯一つ。正に秘湯と言うべき山奥のこの温泉には、猿の一匹見えやしない。言うこと無しの貸切だってのに、やたら縮こまって見えるその背中が、彼女なりの恥じらいなんだろう。
そういうわけで、俺と旦那が選んだのは、この整備もそこそこの秘湯だ。同じくらいの距離でちゃんとした名湯もあるんだけど、話し合った結果、この旦那のお気に入りの湯になった。
何せ色々都合がいい。付き添う旦那や俺の身分をさして隠さず済むし、彼女の体に各所残っている傷をジロジロ見られることもない。何より、旦那が自分で決めたのだ。
『俺はあの湯に浸かる時、とても気が落ち着くのだ。だから、巴殿にも、是非、つ、浸かって頂きたい。』
…まあ、そう言った本人は今鼻血まみれなんだけど。全く格好つかないんだけど。
「それでも、俺様よりはマシ?」
「猿飛さん?何か言いましたか?」
「うん…。」
木の幹に背中を預けて曖昧に返事をすると、巴ちゃんはぱちゃりと湯の中で半回転。再びこちらに向き直り、黙って続きを促した。
「巴ちゃんはさあ、俺様にして欲しい事、ない?」
「はい?」
「そろそろ巴ちゃんが出発するにあたってね、旦那もこうして巴ちゃんに誠意見せたわけだし、一応俺様ったら害を成した本人なわけだし。形だけでもなんかしなきゃなー、っと。」
「……猿飛さん…。」
「え、何、その同情めいた目。」
「猿飛さん…あたしがお先に頂いてからでなんですが、よろしければご一緒に浸かりませんか。」
「破廉恥でござるううぅう!!!!」
「巴ちゃん、トドメ刺さないでよ。」
遂に茂みの中から旦那が逃げ出したわけだけど、追いかけるの面倒くさい…でも追いかけないわけにもいかないから、とりあえず影だけは送っとく。俺様ってば何て出来た従者。…それはそれとして。
「さ、真田さん…!」
「いや旦那は無視していいから。で、今のどういう意味?」
「あー…じゃあ失礼ながら無視しますけど、猿飛さん、働き過ぎです。いや、尽くし過ぎです。お湯に浸かって癒されるべきです。」
「…は?」
「朝は誰より早く炊事を始めて女中さんの中心で朝餉作り。その合間に夜番の忍さん達の報告を受けて、流れる様に真田さんに起床を促し稽古を見守ってからのおさんどん。昼は外に出る用事が無ければ掃除に励み、あたしの塗り薬を調合に塗布、真田さんのおやつを作り、武田さんのお仕事をこなしつつ時々忍頭自ら上田城にも報告に行って真田さんの近況報告。戻って来ては夕餉を作り、そのまま明日の仕込みを終えてからは忍者のゴールデンタイムと…猿飛さん、そんな風に毎日健気に主人達に仕えている忍さんに、どうして何かしてもらおうと思えましょうか。」
「やだ巴ちゃんたら、そんなに俺様のこと調べちゃって。照れるー。」
「見事な棒読みですねえ。」
「ていうか今のどこ情報。」
「館の皆さんの証言を繋いで判明した猿飛さんのとんでもないタイムスケジュールです。」
「だから南蛮語は解んないって…。」
いやそこじゃないでしょ。と、自分で自分を突っ込む虚しさに、額に手を当て溜め息一つ。
何だかなあ、こっちはこっちで毎日見張りつけて報告させてるから人のことは言えないんだけど…まさかこっちまで行動把握されてたなんてねえ。っていうか、いつ誰と話して…いやまあ、大体想像はつくけど。
「うちの大将と部下を誑かすのも程々にしてよね。」
「えぇ…誑かすって人聞きの悪い…。勝手に話題にしたのは悪いと思ってますけど、武田さんも部下の方も猿飛さんを慕っていて、」
「ねえ巴ちゃん、話を逸らすのも程々にしないと、俺様怒っちゃうよ。」
いいのかなあ、あれこれ雑談して麻痺しちゃってるみたいだけど、温泉に浸かる巴ちゃんは当然一糸纏わぬ無防備そのものだし、今は何処に行ったか初な旦那もいない。
「的外れな事ばかり言われるとさあ、いくら心の広ーい俺様だって怒るんだからね。」
とかなんとか言いながら、露骨なほどに意地の悪い笑みで近付いてみせる。
それには流石の巴ちゃんもギョッとしたが、だからといって身を引くことはない。逃げれば例え冗談であっても、迫る相手を煽ることを知っている。とことん可愛くない子。
それはそれで燃えちゃう俺様の趣味って大概?…今更。
「ほら、誤魔化さないで最初の質問に答えなさいって。」
「いやいや答えましたよね。と言うかにじり寄らないで下さい流石にまじまじ見られたいとは思いませんよ!」
「ねえ、巴ちゃん。」
「猿飛さんスルーしないで!そしてその無駄な色気!」
「ねえ、」
「さ、猿飛さ……、」
「俺にして欲しいこと、言ってみてよ。」
片膝をつき、湯煙を割いて伸ばした指先に、しっとり温い頬が触れる。ぴくりと肩を揺らした彼女の顔は赤い。当たり前だ、湯に浸かってるんだから。それでも、この戸惑う瞳は自分が作ったと思えば、多少なりとも気分は良い。
あらら、すんごい目泳がせちゃって。それに思わず吹き出してしまったら、残念、テンパりつつもまた無駄な言葉が飛び出した。
「いやいやいやあの猿飛さんはいつも仕事の一環として良くして下さってますから!丁重にお断りしておきますね!」
「もうちょっと空気に流されてくれない?」
「流されません!流されませんから!」
「それにねえ、良くして当たり前でしょ。仕事なんだから。」
「そうですよ、猿飛さんは仕事であたしを傷付けました。だから仕事で返してもらって正しい筈です」
「違うね。」
言葉が終わった途端の即答に、巴ちゃんはとっさに言葉を返せずに止まった。
違うね、それ全然違う。おかしいな、誰でもない当事者は巴ちゃんなのに。…ほんと、おかしいなぁ。
「あんたが俺に向かってきた理由は、」
「り、理由?」
「その理由はさぁ、認めたくないけど、俺の心情ってやつを酌んだ結果だ。で、その俺様の心情ってのは?」
「え、」
「あんたは意識しないでそういう事するんだね。俺様はさあ、できないんだよ、そんなこと。」
彼女が忍に似ているなんて、かすがの思考はやっぱりおかしい。少しも忍らしくないじゃないか。謀る為に他人の顔色を読む俺と、これといった理由もなしに人の中身を見抜く彼女。まるで真逆だ。今更言うまでもなく、俺達と彼女は違う人種。
だからこそ、俺は苛ついている。
この子がどんな人生を歩いてきたかなんて分からないし、これからだって解らない。でもその結果としての彼女には、どうしても納得がいかない。忍でもないのに忍のように振る舞う様には、疑問しか湧かない。
出会った時からそう。気配を消した忍を見つけ当て、飄々とかわし、為政者を手懐け、剣術の達人との手合わせ、上忍相手に傷程度で済む体術。その資質を覆い隠す平凡さ。
そして何より──何よりも。
「あんたは、泣きもしない。」
馬鹿じゃないのか。あんたは俺やかすがじゃない。俺達が出来ないことをしていいんだよ。言っていいんだよ。言ってごらんよ。ほら、ねえ、ほら、お願いだから。
お願いだからさ。
「泣け。」
俺はそれを望んでいる。
誰でもないただ唯一、俺一人の為だけに。