佐助を見上げて、俺の胸元に触れるか触れないかの位置にあった巴殿の頭が、ようやく元に戻った。



「すごいですねー猿飛さん。本当にかすがさんと同じ出身なんですね。かすがさんは白い梟でしたよ。」

「そ、そうでござるな。」

「あ、見たことありました?」

「た、武田と上杉は、幾度も、戦をしております故。」

「ああ…そうでしたね。」



し、まった…!!元々謙信公に恩がある彼女に、この様な話をするべきではなかったか…!!

先程まで楽しそうだった巴殿の声色がやや下がり、一瞬止まった会話にぎくりとする。しかし彼女はそんな自分の気持ちを察したかのように、すぐにまた口を開いた。



「温泉にはどの位で着きそうですか?」

「う、は、はい。半刻もあれば、着きましょう。」

「割と近いんですね。連れて行って頂いて、本当にありがとうございます。」

「い、え!礼を言われるような、ことでは!!」

「真田さんは走りながら話しても大丈夫ですか?気が散るようなら控えます。」

「その様なことはございませぬ!!某が相手でも宜しければ、気にせず、お話頂きたく…!!」

「ありがとうございます。」



そうだ、気など散らない。散らぬが…!近い、あまりに距離が近い…!!体を触れ合わせてはいないものの、着物越しでも感じる温もりに、一向に腰が落ち着かない。馬が揺れれば肩が触れる。跳ねた癖毛が胸元を擽る。

そして、香なのか、甘く鼻を掠める良い香りが、緊張で煩い胸の内いっぱいに広がるのだ。彼女から香るこれは恐らく、金木犀の香り。何故か切なくなる秋の香が、何とも言えない気持ちにさせる。

異性への過剰な意識と、戸惑うほど心地良い香りに、体の根がふわふわと不安定だ。おなごと話すことは元より不得手だが、益々上手く言葉が紡げぬ…!!

しかし…!!今日は巴殿に楽しんで頂くと決めたのだ…!決していつものように話の途中で逃げ出したりはしない!!

思えば今まで、某は彼女に失礼なことをしてきた。気になっては度々部屋に出向き、声をかけに行ってはいたのだが、募る緊張に堪えきれず、話を続けられず、毎度逃げるように立ち去っていた。慶次殿が傍におられるからと、慶次殿の方が気楽であろうと、言い訳のような卑屈のような理由を付けて、顔を背けた。彼女を此処に拘束しているのは、他でもない、己だと言うのに。

慶次殿を見送った、彼女の横顔が忘れられない。顔を隠すような横髪から一瞬だけ見えたその表情は、何もかも押し殺した、強く儚い兵士のようであった。

謙信公を送り出した時は、また少し違った。かすが殿にも、謙信公にも、力強く、…ほ、包容、され、酷く照れながら、もう心配は要らないから、安心して帰って下さい、と笑っていた。

謙信公やかすが殿と、慶次殿の違いは、一体何だったのだろう。…やはり、一人取り残される不安だったのだろうか…。

兎にも角にも、何かしなくてはと思ったのだ。今まで彼女を励まし、気を紛らわせていた慶次殿がいなくなったのだから、という気持ちは勿論そうだが、そういった具体的な理由は全て無しに、放ってはおけないと思った。そうしなくては、彼女は──…



「藤次郎さんは、よく馬に乗りながら喋る人でした。手綱は握らないし、ぺらっぺらに喋り続けるので、こっちがヒヤヒヤしましたね。」

「政宗殿とも、こうして相乗りをしたことが?」

「いえ…藤次郎さんとの相乗りはセクハラが酷そうなのでお断りして、片倉さんに乗せてもらいましたよ。」

「急く、原…?と言うものは解りませぬが、片倉殿でしたら安心でございましょうな。」

「はい、すごく安心安全でしたね。安心し過ぎてぐっすり寝てしまって、何度片倉さんに小突かれたことか…。っていうか意外と言いますね、真田さん。片倉さん“なら”って。」

「政宗殿は、何と言いましょうか…ひどく前衛的でございます故。」

「あはは、すごくまろやかな言い方です。でも藤次郎さんは藤次郎さんで、武田式乗馬もクレイジーだって言ってましたよ。馬の上に立って駆けるんだ、って。」

「くれいじい、とは?」

「うーん、前衛的な感じです。」

「何と…政宗殿と一緒にされているのでござるか…。」

「あはは!顔見なくても嫌そうですねえ。」

「むう…。」



口には出さぬが、少々心外だ…。政宗殿は宿命を感じた好敵手ではあるのだが…複雑だ…。

しかし、巴殿が楽しそうにして下さっているのだから、まあ、いいか。おなごの笑い声というのは、甲高く妙に迫力を感じてしまうが、彼女はさっぱりとした好ましい笑い方をする。女性、というよりは、どこかあどけなさを感じ、失礼ながら、少女、という認識に収まる。…まこと、少女らしい、屈託のない可愛らしさだ。



「今更ですが、巴殿は他にも大名とのお知り合いが?」

「知り合いって言っていいのかは、あたしの独断では言えませんが…藤次郎さん以外にも何人かはお会いしましたね。」

「ほう。」

「恐山の南部さんはご存知ですか?あの方にはすごくお世話になりました。」

「あの霊験の地に行かれたのでござるか!?死者の霊魂を呼び寄せるという、あの南部殿に!?」

「はい、いい人でしたよ。あたしは結構…好きな土地でした。」

「…巴殿もなかなか変わっておられる。」

「あれ、やっと気付きました?」



気付けば、先の緊張はなんだったのか、こんなにも自然に話すことができる自分がいる。不思議だ…いや、これは巴殿の気遣いのお陰であろう。謙信公との繋がりがあるとは言え、お館様ともすぐに打ち解けていた様子であるから、彼女の特性なのだと思う。

…だからこそ、佐助は警戒を解けぬのであろうが。



「ちなみにあたし、かすがさん以外にももう一人、忍のお知り合いがいます。」

「は…、」

「その人は、かすがさんみたいにこの人の為だけに仕える!って熱い方ではないですし、猿飛さんみたいに普段明るい感じでもない、すごく忍らしい忍さんですよ。」

「……。」

「だから結構、慣れてます。疑われたり探られたりっていうのは。」



誰だってそうしないと生きていけないですからね、などと、敢えて軽い調子で言った理由は、俺でも解る。佐助の事を言っているのだ。今、俺があれを思い浮かべたように。

だが妙なのは、前後の話が噛み合っているとは言え、──何故、彼女はこうも、俺の考えを察するような言葉を紡ぐのだろう。



「…巴殿は、読心の術を使えるのだろうか。」

「ただの勘です。言葉が解らない所で長く過ごすと、人の顔色で察する力がつくんですよ。」

「…佐助でも、こうはいきませぬ。」

「そうでしたか?結構すばずば言われてる気がしてましたけど。」

「申し訳、ございませぬ。」

「いえ、そんな、」

「…佐助にとって、巴殿は…」



酷く調子を狂わさせられる相手、疑わずにはいられない相手。だが、決してそれだけではない。一言で言い表すなら、そう──



「と」

「あ、ストップです。」

「、っっ!!?」



おおおおお!!!?なっ…なんっ…なあぁあ!!!?

言葉にならない言葉が漏れるこの口を、緩く塞ぐ温かい蓋の後ろ、先程まで癖のある後ろ頭があった場所には、くりっと円らかな二つの瞳、が。つまり、は、…!!!



「ななななな何故!!!こちっ此方に向きををおおぉお!!!!」

「っ!!?あああすみません!!すみませんでしたからちょっとお口チャックで!!自分の声が聞こえないってどんだけですか!!」



巴殿はどうやら俺を窘めている様だが、それどころではない。馬の背の上、相乗りの体勢ですら近すぎたと言うのに、あろうことか巴殿は、その狭い場で器用にくるりと向きを変えたのだ。ぴたり半回転、丁度顔を突き合わせる向き、に…っ!!!

正しく懐に入れる至近距離で、覗き込む彼女の面に堪えきれず、目を反らせば微かに触れる互いの膝が。体を支える片手は、開いた足の間に添えられ、もう片方の手は先程から俺の口を塞ぐ。…この状況は一体何なのだあああぁああ!!!



「さっ…さっさすっ…!!」

「あっ、ちょっ、落ち着いて下さい真田さん!あの!あたしはただ、そういうのは本人の口から聞きたいってことを言いたかっただけなんですよ!」

「はっ…?」

「あの、知ったかぶりなこと言ってしまって申し訳ないんですけど、真田さんと猿飛さんの絆の強さは分かってます。今言いかけた真田さんの予測は、合っているのかもしれません。でも、あたしにそれを話したいかどうかは、本人が決めることですよ。あたしの話を聞きたいかどうかも、本人が決めることです。それは、真田さんが口出ししちゃいけないことです。」



ああ、まただ。また、この瞳だ。鋭く深く、どうにも逸らし難い、既視感のあるこの視線。

まるで彼女の瞳に吸い込まれるが如く、顔の熱が引いていく。有り得ない体勢で向かい合っている事すら忘れてしまう。




「嘘でも構わないんですよ。あたしは、相手があたしに見せたいと思った、その一部分が、欲しいです。」





数日前、お館様と謙信公、そして巴殿の三人が、とても和やかに茶を囲んでいた事を思い出した。

謙信公とは以前よりの仲と、傍目で見ているだけで判るのだが、巴殿はお館様ともすぐに打ち解けていたようで、流石は客商売をしているだけあって人当たりが良いのだな、と感心し、また、安堵したことを覚えている。

しかし、それだけではなかった。似て非なるお三方には共通点があった。佐助は気付いていたのだろうか、その類似を。

己の信念に揺るぎない、眼差しを。




「…巴殿。」

「はい。」



またくるりと向きを戻した彼女の背に、いや後ろ頭に、問いかける。

あれだけ馬上で騒いでいたが、肝の据わった愛馬の歩みはゆるりと進むままであった。目の前でゆらゆら揺れる彼女の髪は、今更ながら少し俺の髪と似た色に見える。



「ならば…ならば、某の事は、聞いて下さるだろうか。某が、巴殿の事を聞いても、良いのだろうか。」



我ながら、何と情けない声だ。何と些末な問いかけだ。だが巴殿は、今度は横顔が見えるが見えないという小さな動作で振り返り、しかし確かに笑みをくれる。



「真田さんがあたしの事を聞いて下さるなら嬉しいです。それで、あたしも真田さんの事を聞いてもいいなら、こんなに嬉しいことはないですねえ。」




他者と気持ちを通ずることが、どんなに困難で奇跡的で、幸せなことであるかを、俺はすっかり忘れていたらしい。
それは、一重に己の周りが人々の暖かさの賜物であり、それに甘えた己の慢心の結果であり。


その両方を、巴殿はそっと気付かせた。嗚呼、きっと、彼女の瞳の奥にあるものは、思いやりと言う名の読心術だ。

見つめ合い、恥じる事を忘れる程に心地良いのは、当然だろう。お館様に認められる程に強い意志を持つ者の、惜しみない思いやりに、未熟な俺が目を反らせる筈もない。




「巴殿、その…」

「はい。」

「そ、某も、まこと、うっ嬉しゅう、ござい、まする…。あの様な酷い目に合わせた挙げ句、こうして、巴殿を武田に留まらせてしまっているのは、他でもない、某でばござるが…」

「真田さん、あたしが言うのはあれですが、そう畏まらないで下さい。折角同じ湯に浸かるんですから、今日はちょっとだけ気兼ねなく話させて下さいね。」

「そ、そうでござ…………えっ?」

「え?」

「す、すまぬが、今何と…。」

「え?待って下さい、今から行くのは温泉ですよね?」

「お、温泉でござる。」

「ですよね。真田さんも入りますよね?」

「……。」




どうやら彼女は、通り透かす目と、通り抜ける目の二つを持っているらしい。

先に向かい合った目は前者、今肩越しに合う目は後者。故に正反対の視線を受け、俺はやはり先程とは正反対に目を逸らした。否、俺でなくても逸らすであろう。──そうであろう。





「……さすけえええぇえええ!!!!!」








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