「わあ…綺麗な馬達ですねえ。」
風来坊が武田を出た次の日。朝餉を食べてから早速、彼女が所望した温泉に出かけることになった。
早々と支度を終えた巴ちゃんは、旦那より一足早く厩に来て、武田自慢の駿馬を見ては珍しく明るい表情をしている。
俺様はというと、丁度旦那の馬を引いてきたところで、それに気付いた巴ちゃんは、そっと斜めに近づいてきた。
「この子は、真田さんのお馬さんですか?」
「うん、旦那と同じくらいよく食べてよく動くよ。」
「そうなんですか、やっぱり主人に似るんですね。」
「…巴ちゃんは、動物好きそうだね。」
「はい、好きです。」
…まーそんな素直な笑顔しといて、嫌いってことはないよね。なんて考えながら、門に向かって進む。と、そこで巴ちゃんが不思議そうに呼び止めた。
「あれ、…一頭だけですか?」
「当然でしょ。」
「え、相乗りです?」
「そう。」
「…真田さん大丈夫です?」
「自分から連れて行くって言い出したんだから、大丈夫でしょー。」
なんてね、まだ旦那には何も言ってないけど、まあいい機会だから頑張って女慣れしてもらうってことで。うちの馬借りパクして逃げられたら困るし。
とか言っている内に、噂の旦那が緊張の面持ちでやって来た。もう既に緊張してるとか、帰りまで保つのかねえ。
「と、巴殿!お待たせ致しました!」」
「いえいえ、全然。それより相乗りって今聞いたんですが、大丈夫ですか?あたし、馬さえ貸して頂ければ乗れますけど…。」
「いえ!!某が連れ出させて頂くのでござる!!それに体も全快ではござらぬ故っ、巴殿が嫌でなければっ!とっ、ととと共にっ!乗って頂きとうござる!!!」
あっれ、意外な反応。まさか最初からその気だったなんて。いや、だから初っぱなから緊張してたのか。
それにしたって、俺様から手綱を取る動きがぎこちなさ過ぎるんだよなあ、これが。…巴ちゃん振り落とされるんじゃね?
「…猿飛さんは、一緒に来てくれます?」
「面倒臭いけど、俺様旦那の従者だからさー。」
「よかった…。」
小声で俺様に囁いた彼女もまた、同じ不安を抱えていたらしい。それでも旦那に先に乗るよう促されれば諦めたらしく、いつもの落ち着きを以て素直に従う。
「お、お一人で、上がれるだろうか。」
「はい。その前にちょっと挨拶してもいいですか。」
「挨拶?」
「この子に乗らせて頂くと思ってなかったので。失礼します。」
誰に?と、旦那と顔を見合わせて首を傾げていると、彼女の右手は目の前の馬の顔に触れた。…挨拶って、馬に?
いつもとは違う人間が撫ぜる感触に、馬の瞳が彼女を映す。その視線は不快な色を含まない。そうして不意に頭を低くしたかと思うと、彼女はゆっくりとその鼻筋に額を当てた。まるで、子ども同士が額を突き合わせながらする、内緒話みたいに。
「巴と言います。今日はよろしくお願いします。」
小さな声で、ほんとに人間にするような挨拶をして、そっと額が離れる。
一見変わらない馬の挙動は、毎日よく見ている者しか分からない変化があった。
「…巴殿が気に入ったようでござるな。」
「ほんとですか?いやあ…最近動いてないですし、重いかもしれないので、先に断っておかないとなーと思って。」
「何を仰られるか。巴殿は某の装具より軽そうでござる。」
「まさかまさか。持ってみます?」
「なっななな…!!」
「あはは、冗談ですよ。」
巴ちゃんは珍しく声を出して笑うと、ふざけて広げた手をそのまま馬の背に当て、身軽に馬に跨った。思いがけず冗談を言われ、顔を赤らめたり驚いたりしている旦那を差し置いて、高いだの久し振りだのと静かにはしゃぐ姿は、歳より随分幼く見える。
そういえば、巴ちゃんが旦那をからかうなんて初めてかもしれない。彼女のことだから、気まずくならないよう冗談をめかしたのかもしれないけど、…逆効果になってないといいねー。
「ほら旦那も、早く後ろ乗って。」
「う、あ、ああ。」
「俺様先に行くからね。巴ちゃん落としちゃ駄目だよ。」
「当然だ!と、巴殿、失礼致しまする!!」
「はい、よろしくお願いします。」
「ぐ、…ぐうおおぉ…!!」
「既に大丈夫ですか?」
「だっ大丈夫でござるっ!!!いざ!!」
「わっ!」
「さて、俺様も行きますかね、っと。」
破廉恥!と叫ぶのを我慢して急発進した旦那を見送ってから、助走をつけて飛び上がり、忍烏を使って二人と一頭を追い越す。
その時、旦那に寄りかからんばかりに上を見上げた巴ちゃんと目が合った。いや、多分俺様じゃなくて烏の方を見てたんだろうと思う。だって、すごいいい笑顔。
「んじゃ、二人ともおっ先ー。旦那ー鼻血出さないでねー。」
「佐助ええぇえ!!!」
「お気を付けてー!」
後で烏さんもよく見せて下さいー!
そう言って手を振る彼女はいつになく明るく、そんな風に笑うなら、後でゆっくり見せてあげようか、なんて、この俺様の頭を掠めるほどだった。
──でも違う。俺が本当に見たいのは、全てを脇に避けて、上手に作ったその顔じゃない。
「…昨日は珍しく、楽しそうに支度してたって和やかな報告を貰ったけどさあ、」
俺がアンタを認める為に欲しいのは、必要なものは、それじゃない。違うんだって。気付いてよ。ねえ。