最近の俺様は、とっても機嫌が悪い。
「長。」
「…はいはい、あの子の報告ね。」
「はい、報告いたします。今朝は─」
代わり映えのしない彼女の一日の様子を聞くのは、軍神とかすがが彼女を前田の風来坊に託し、越後に帰ってしまってから、もう七度目だ。
早くに目覚めて、あてがった部屋に面する庭で少し体を動かし、寝坊常習犯の前田の風来坊を叩き起こしてから、一緒に朝餉を食べる。……話は逸れるけど、旦那ばりの大食漢が一人増えるって、結構痛いんだからね?新手の兵糧攻めかっての。大将が許可しちゃってるし、毎度美味そうに食べるから文句は言わないけどさあ…。
まあそんなこんなで、腹が膨れて町に遊びに出て行く風来坊を見送ってから、巴ちゃんは再び部屋に戻ってくる。軍神が帰った直後数日は、この後ばったり眠りに就くのが常だったけど、最近はもう当たり前に起きていた。起きてて何するかって言うと、荷の整理。あれね、あのでっかい瓶。あれってすっげー色々入ってんの。菓子を作る為の道具は勿論、秘蔵の調味料や、生活必需品諸々、あとは南蛮渡来の珍品とか、文。
そういう物が、更に壺に入ったり箱に入ったりして、綺麗に分別されて入っていたそうだ。その入れ物も当然のように異国の物で、それだけでもかなり目を引く。竜の旦那が気に入るわけだよなあ。
ちなみに、こんなに事細かに内容物が判っているのは、別にこちらで調べたわけじゃない。わざわざ彼女自身が説明をしたからだ。その時に見張らせてた部下にね。俺の時もそうだったけど、彼女は忍がいくら気配を消してもその存在に気付く。おもむろに隠れている方向に向かって声をかけるのだ。そして見張り役を部屋に招いて、懇切丁寧に説明してくれたらしい。…これは、お人好しって言うのも何か違うよねえ。
まあ、兎に角そんな事をしながら、彼女は日がな一日部屋に居た。偶に大将に呼ばれてお茶をしたりはしてたけど、前田の風来坊と違って町に出ることもなく、館の中を動き回ることもない。退屈な報告が続くばかりだ。
そんな彼女を見かねて、旦那がぎこちないながら様子を見に行くも、まあそこは旦那だよね、巴ちゃんが目覚めたあの日の事もあって、かなり短時間で逃げるように戻ってきてしまう。
けれど、彼女は穏やかだった。怯えもなく、静かで、大人しく、殺されかけた時ですら、一度だって泣きやしなかった。
そう、彼女は泣かない。
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「じゃあ俺、そろそろ発つよ。」
と、前田の風来坊が宣言したのは、下忍からの彼女の報告回数が、丁度十に達する日の朝の事だった。
この日は珍しく、旦那と前田の風来坊、そして巴ちゃんの三人で朝餉をとっていて、大食漢二人に挟まれて食事をする巴ちゃんが若干気圧されていたわけだけど、風来坊の突然の言葉に、彼女は元々ゆっくりだった箸をぴたりと止めてしまう。対照的に、旦那は驚きながらも全く箸を止めずに叫んだ。
「発たれるとは今日でござるか!!?」
「旦那!口の中の物飲み込んでからにしなさい!」
「ははっ、武田の忍はまつ姉ちゃんより厳しいな!」
「それ、褒め言葉のつもり?」
「……っ、いけませぬ!!まだ巴殿は全快しておらぬというのにっ!!」
「うん、発つのは俺だけだよ。」
「な!?」
「…どういうことさ。」
これには流石に眉を顰めた。確かにあの日、軍神とかすがが越後への帰路につく前に、風来坊は念に念を押されていた筈。かすがに至ってはこちらに信じろと頼んでおきながら、また俺様が巴ちゃんに何かしないように見張れとも言ってたし。
考えながら、ちらりと様子を窺った彼女は、何故か納得したような、自嘲めいた表情で、止まっていた箸先の米を口に含む。
「謙信達は、巴と一緒に発てだなんて一言も言ってないぜ?」
「……あー、そうかも。」
「し、しかしそんな言葉遊びのようなことを…っ!!」
「俺はこの数日で、色々大丈夫だって判ったんだ。だから俺はもう用無しってことさ。長々世話になって悪かったなあ。ありがとう、飯も美味かったし、助かったよ。あんたの師匠にはもう挨拶してあるから、今から出発する。」
風来坊の決意は固く、ぱちんと手を合わせてから立ち上がると、巴ちゃんの頭を真上からがしがしと撫でた。独特の癖毛を気にしていると言う彼女は一瞬固まっていたが、すぐに諦め顔で肩の力を抜く。それを見て、風来坊は満足そうに二度頷いた。
「…よし!じゃあ行くな!夢吉、起きろ!」
「キィ…」
「ん?あんたの小猿、姿見えないけど。」
「ここですよ。ほら、夢吉君、慶次さんが行っちゃうよ。」
「!!!?」
「…何てとこで寝かせてるのさ。」
「いやあ…可愛くて起こすタイミングが…。」
彼女がいきなり着物の袷を開いたと思えば、そこには胸元に巻かれた包帯にしがみついて眠る小猿の姿があった。うん、確かに可愛いけどね。ちなみに旦那は顔を反らしながら「破廉恥…」とか小さく呟いてるけどね。…叫ばなかっただけマシか。
「慶次さん、色々ありがとうございました。」
「いいってことよ!久々に会えてよかった。」
「あたしもです。お礼はまた、次に会った時に。」
「礼なんて要らないけどさ、次会った時は、巴の飯と大福が食べたいな!」
さらっと放たれた風来坊の言葉に、ぴたりと旦那が動きを止めた。
今まで何となく禁句のようになっていた彼女の本業の話を、敢えて置き土産にしていくところに悪意を感じる。その顔からは深い意味なんて一切読み取れないけど、余計なことをしてくれた。
「…はい、覚えておきます。」
彼女が曖昧に返事をして、更に俺様を苛つかせるなんて、アンタなら判っている筈なのに。
「…巴殿は、知らされておられたのですか。慶次殿が今日発つことを。」
「いいえ。でも、慶次さんですからね。急に動き出すのには慣れてます。」
風来坊を見送った門の前で、珍しく旦那から巴ちゃんに声をかけた。多分、姿が見えなくなってからもずっと道の先を見つめていた彼女に気を遣ったんだろう。
彼女の応えは簡潔だった。その横顔に変化はなかった。ただしっかりと、「もう暫くお世話になります。」と改まるだけだった。さて、そんな巴ちゃんに、旦那はどう出るかな。
「と、…と、巴殿!」
「はい?」
「その、差し支えなければお聞きしたい、の、だが!」
「は、はい。」
「ど、何処か、行きたい場所など、ないだろうか!」
「…はい?」
あら、意外。
「と…巴殿は、もう何日も館に籠もりきりでござろう。体を動かさねば、気も滅入られるものだ。体力も落ちてしまいます故、御加減さえ良ければ、そ、そのっ…そ、某が!お連れいたしまする!!!」
「わー…相変わらず、声おっきいですね〜…。」
うん、多分館の中まで聞こえてると思う。でもね、そこじゃないから。初な旦那が女の子をお出かけに誘ったんだよ。館の方がざわめいてるし、できれば色の好い返事をお願いね。
「い、如何でござろう!!」
「はい、えっと、お気遣いありがとうございます。でも、大丈夫ですよ。最低限体は動かしてますし、室内で寝泊まりできるのは貴重なので、居られるだけ居ておきます。」
普段は野宿なので、ってそんな話はいいから、色好い返事をしなさいってば、もう…。可愛げのない。
「し、しかし!」
「そう言って下さったお気持ちがすごく嬉しいです。それだけでお腹いっぱいですよ。」
「以前から思っておりましたが、巴殿の腹は些か小さ過ぎるのでは!」
「あはは、真田さんと足して割ったら丁度いいかもしれませんね。まあ実は、真田さんに再会する前に、周辺の町は大体回ってしまってるんで。」
「そ、そうでござるか……い、いや!しかし!某は巴殿に少しでも楽しく過ごして頂きたいのです!某はっ…、某はっ、慶次殿と違い、おなごを楽しませる術など知りませぬ…!ですからっ、せめてっ…少しでも気晴らしになればとっ…!!」
「うん!?あれ!?真田さん!?な、泣いてます!?泣くほどですか!?」
「泣いてござらぬ!!泣いてなどござらぬっ!!!」
「あーはいはい、頑張ったね旦那。」
「さ、猿飛さん!助けて下さい!」
「苛めてるのは巴ちゃんでしょー。ほら旦那、こんなとこで泣かないでよ。」
「泣いてなどいないと言っているだろうがあ!!!馬鹿にするな佐助ぇ!!」
何だか収集のつきそうにない雰囲気だし、旦那にしては頑張ったからと助け船を出してあげたのに、怒鳴られるなんて心外だねえ。それと、巴ちゃんを助けたおぼえはないんだけどなー。
「ってわけだから、行っといで。」
「え、で、でもあたし、行きたい所とかは特には…」
「何でもいいからとりあえず言ってみなよ。その無い脳みそ動かしてさあ。」
「佐助!その様な言い方があるか!」
「あ、大丈夫です大丈夫です。海の向こうの国とかもっとえげつないジョークあったので。えーと…ちょっと待って下さいね…。」
「い、いえ、その様に悩まれるようならば、無理には…!」
「俺様は無理にでも行ってほしいんだけどな。」
「佐助!!」
「や、巴ちゃんの部屋の畳ひっくり返したいんだよね。」
「ああ成る程。武田の皆さんは綺麗好きですね。」
あはー、嘘じゃないけどそこ納得しちゃうんだね。まあいいけど、折角和やかに促してあげたんだから、今度こそちゃんとお返事をどーぞ。
「………あ、この辺りで温泉湧いてる所ってあります?」
「おっ…温っ、泉…!?」
うーん、そう来たか。
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