二日前、突然館を飛び出した幸村と佐助が連れ返ったのは、昏々と眠りに溺れる見知らぬ娘であった。
「…─ってわけで、恐らく軍神がそれにつけて何か行動を起こしてくるとは思いませんけど、到着したらまず彼女に会わせるのが一番波風立たないと思いますよ。」
「うむ、それが良かろう。…しかし、奇縁もあるものよ。奥州に越後、そして甲斐。巡り歩く中で、こうも大名との関わりを持つとは。その娘が婆娑羅に魅せられているのか、婆娑羅の力を持つ者が、娘に魅せられているのか…。」
「…俺には分かりかねますね。」
「佐助、おぬしの見解を答えてみよ。巴と言う娘、どう捉える。」
「忍にそれ聞いちゃいます?怪しい奴としか言いようがありませんって。」
「人としての本質を聞いておるのじゃ。」
「…俺は大将と違って、見る目はないからねえ。……ただ、恐らく、どちらもですよ。先程大将が言われたこと、どちらも。」
「ほう。」
「彼女は婆娑羅を持つ者に魅せられているし、婆娑羅を持つ者もまた…彼女に魅せられるんじゃないですかね。」
どこか憎々しげに、佐助は言った。
「気合いが足りんぞ幸村ぁ!!!」
「申し訳ございませぬっ…お館様ぁあっ!!!」
「うむ!!これからも鍛錬を怠るでないぞ!して幸村、おぬしはあの娘のことをどう思っておる。」
「どっ…ど、どどどどうとは…!?」
「女人としてではなく、人としてよ。」
「っ…そ、某は…彼女に取り返しのつかぬ酷い事をしてしまいました…!己の浅はかさは明らか、どんな理由があれど、責めて下さって当然…!!しかし、彼女は責めるどころか、某に謝られたのです。…心から、誠意を持って。」
「ふむ。」
「彼女の心内は未だ分かりませぬ…。某や佐助に謝罪をしたその気持ちは、果たして彼女の温厚な性格から来るものなのか、それとも…。恐らく、彼女は……全てを諦めて、消えてしまいたいのです。そして同じだけ、何としてでも生き延びて兄に会いたいと願っているのです。故に脆く、そして強い。そんな彼女は…相反する気持ちを抱えながら、安寧の日々を目指して、あらゆる意味で過酷なこの場所で生きている。いわば我等が国の平穏を望み、平和とは真逆の戦場を駆けるが如く。某は、そんな巴殿を忘れずにいたいと、強く思った次第です。彼女は、他人にそう想わせる人物でございまする。」
首まで染まった朱色がみるみる内に引き、幸村はその一本筋の通った瞳で以て、力強く言った。
そして、今、
「軍神が目をかける娘、是非話をしてみたいものじゃ。」
「ふふ…ともえは、りちぎなむすめ。かいふくすればまもなく、あなたさまにえっけんをもとめることでしょう。」
「おぬしの忍は、随分とあの娘に執心しておるな。」
「ええ。」
仄暗い部屋の中、ありのままに肯定をする謙信は、杯を運ぶ口元の笑みを深くする。
再び眠りに落ちていた少女は、謙信の前で目を覚ますことはなかった。付き添っていた前田の風来坊が起こそうと気を利かせたが、無事に顔を見れたなら今は充分と、面会は思いの外短く終わる。だが、たったそれだけであっても、その面は晴れやかで、佐助の同郷だというあの美しき忍も、厳しい目元を和らげていた。
「わたくしのつるぎは、つよく、うつくしい。おのれがこころをころすことをしり、またとうとぶことをしり、みずからみちをえらぶことができる。わたくしという、ともしびをめざして。しかれども…ひとのこは、それだけではすすめない。」
「うむ。」
「なんぎょうくぎょう…おのれがやみを、おのれでてらすことは、よういであるようにおもえて、なしがたきこと。あしもとに、ひしめくいばらにみをさかれ、きずつきながらはしるあのものには、みもとをてらす、ちいさなあかりがひつようなのです。」
「それがあの少女か。」
「いかにも。ともえは、おのれがそうであったように、たとえいっときであろうとも、そばによりそい、くなんをのりこえるために、てをさしのべるそんざいが、いかにたいせつであるかをしっているのです。」
「成る程。姿からは想像もつかぬが、随分と苦労をしてきているようじゃな。」
「あなたさまのしのびのものは、こんわくしているのですね。」
「分かるか。」
「ええ。たいして、とらのわこは、さすがはあなたさまのでし。すでにともえというものを、りかいしたとみえます。」
「うむ、あれは素直が取り柄よ。佐助はあくまでも忍。しかし、あの少女の前では、その前提を保てずにいるようでな。」
話を聞く分に、疑うべき所が多すぎる上に、隠す感情もあるようだ。探りをかければ呆気なく本心からの言葉を返す割に、何か決定打が足りない。報告する佐助は、珍しく感情を押し殺しきれていない様子であった。
「同族嫌悪か。」
「はたして、けんおのかんじょうでしょうか。」
「…ほう。」
「にてひなるものとたいじしたとき、ひとは、おのれというじんぶつをみすえるもの。それは、こうき。そして……おや。」
「む?」
「…上杉さん?」
襖の向こうに人の気配を感じたと同時に、女の声が聞こえた。聞き慣れぬ声だが…女中ではあるまい。謙信の姓を呼ぶ、その声、これは。
「ともえ。」
答えを出すよりも早く、謙信が襖に向かって名を紡いだ。気配が揺れる。
「上杉さん、お久しぶりです。…武田信玄さん…も、いらっしゃいますよね?こんな所で何ですが、ご挨拶が遅れて失礼しました。巴と言います。部下の方にご迷惑をおかけして、本当にすみませんでした。」
「目が覚めたか。中へ。」
「いえ、此処で。すみません、あの、厠に起きて、上杉さんの気配がした気がして、つい…急にすみません。というか寝間着でうろついてすみません。また明日、改めてご挨拶に来ますので。」
「きをつかわずとも、おはいりなさい、ともえ。」
「いやいやいや…夜分に男性の部屋に入るなって言ったのは上杉さんじゃないですか。というかもう来られてたんですね、びっくりしましたよ。速過ぎじゃないですか?流石神速ですねぇ。」
思ったよりも明るい声が冗談をめかし、謙信は安堵の混じった笑みを零した。
こうして声を聞くと、全く平凡な娘よ。いや、謙信にこの様に接するのだから、非凡ではある。
しかし、意図して─寝起きだの寝間着だのという理由以外に─頑なに襖を開こうとしないのは明らか。それを分かって受け入れるは、心遣いか、暗黙の了解か。どちらにせよ、今はワシもそれに合わせるべきなのだろう。
「話は聞いておる。おぬしがこれ以上、気に病む必要は無い。過ぎ去りし些細な事柄など水に流し、前田の風来坊共々、気兼ねなく滞在して行くがいい。」
「あ…ありがとう、ございます…。」
「ふふ、わたくしがいったとおりでしょう。」
「む?」
「何て言うか…上杉さんの好敵手なだけありますねえ…。器が大きいです。」
「終わった事を何度咎めようと変わりはしない。必要なのは、次に何をするか。」
「…はい。」
「ついては是非、ワシもぷりん大福なるものを食してみたいものよ。」
「あはは…じゃあ、猿飛さんに秘伝のレシピをお教えしましょう。料理お好きみたいですしね。」
「ほう、よく知っておったな。」
「以前、廚でお話ししまして。」
「ふむ、佐助の作る料理はなかなかの…、謙信?」
和やかな会話が二、三続いたところで、不意に向かいで冷たい気配が動いた。
見やれば謙信は、その細身の体躯をすらりと立たせ、襖を厳しく射抜いている。
「ともえ。」
「はい。」
「きえることは、ゆるしませんよ。」
凍てつく冬の宵闇が如く、冷気を纏った言葉が放たれた。音も無く、襖へと進む歩。それを察したように、かたりと小さく襖が鳴る。
「そなたのすべをたにゆずれども、そなたがきえるゆるしにはなりえない。わたくしが、それをけっしてゆるしはしない。」
「…消えませんよ。」
「そう、いまはまだ…。そなたは、わたくしのみえぬうちできえてゆくのですね…あわれみじめな、かたがいのむすめ。」
「それは、分からないですよ。死ぬ時は死にます。最期なんて、誰にだって分からない。」
「ええ。ですから、ともえ。わたくしはそなたにねがいましょう。ふれるきょりを。つなぐいとを…。たとえいっときであれど、そなたのみもとをてらす、ともしびでありたいと。」
「……。」
「…わたくしとそなたをへだてるものは、しのかわだけでありたいと。」
…謙信に、ここまで言わせるか。
国主として、灯火であるべき民や家臣、懐刀に向ける慈愛とは違うこの感情の真意は何処にある。色でもなく、情けでもなく、友愛…とも何か違う──強いて言うのなら、実の娘に向ける様な其れに似た厳しさと慈愛は、そうそう誰彼と与えられるものではない。
しかし、娘はどうだ。
「あたしは、ですね、上杉さん、」
「はい。」
「あたしは、相手にとって一番良い、誠心誠意の仕方なんて、できないんですよ。いつだって、自分が思った様にしか動けない。きっと誰かが傷付いてる。今は、上杉さん、貴方が。…それでも、」
「……。」
「それでもあたしは今、上杉さんや武田さんと、対等でなくちゃいけません。周りから、あたしが貴方がたの前で泣いて、女子どもだと憐れまれて、同情を誘ったなんて、一片たりとも思われちゃいけないんです。それがあたしの誠心誠意です。どうか、公平に、お願いします。今、この襖は開きません。お二人に、感謝しているから、開けられません。明日には絶対、真っ直ぐ向かい合います。それまで絶対、消えたりしません。約束します。」
弱々しい声から始まり、萎れた芽が伸び上がる様に、芯を増していった娘の言葉の頼もしさよ。
巴と云う娘は、軍神から愛され、護られ、縋る者ではなかった。あのくのいちのように、謙信を唯一人としてひた走る者でもなかった。
佐助、幸村、謙信、そして、巴本人の言葉を聞き、ワシは漸く全てを得る。
この娘は、人と共に生きると決めた者だ。
「…どうです、ともえは、みごとなむすめでしょう。」
誇らしさと呆れを半々に含んだ微笑を浮かべた謙信に、もはや冷たさは微塵も感じない。これは、戦場を舞う軍神の凍てつく氷塊ではなく、春の芽吹きを温かく覆う雪床。
「──謙信の良き友、巴よ。」
「、はい。」
「明日、おぬしと向かい合い、言葉を交わすことを、楽しみにしておる。」
「…はい!」
翌日、やや気恥ずかしそうな面持ちで向かい合い、年相応に笑った巴は、謙信が早々に包容するに頷ける娘であった。