常々思っていたが、巴さんは酷く鈍感だ。そして妙に鋭い。




「うわあ…可愛い…モフモフ…。」



金魚草がそよぐ中庭のベンチに腰を据えた彼女は、約束通り、以前自分がオーストラリア旅行に行った時の写真を夢中で眺めていた。

お茶でも持ってきますと、写真を手渡してから一度席を外した自分が、真後ろに戻ってきても気付かないようだ。その無防備な背中には色々と思うところがあるが、今は気付かない事にしよう。中庭とは言え、此処は閻魔殿内なのだから。



「いいですよね、モフモフ。」

「わっ、あ、すみません。後ろに居たの全然気付きませんでした。」

「いえ、気に入って頂けて良かったです。」

「お陰様で癒されまくってました。今見た限りだと、補佐官さん以外に日本人っぽい方が写ってませんでしたけど、この時の旅行ってお一人で?」

「はい、現世のテレビ番組の懸賞に当たりまして。」

「へええ!すごいですねえ。…あれ?でも、地獄で現世のテレビ?」

「CSにすれば見れますよ。」

「マジですか…。」



益々死んだ実感が…と呟く巴さんだが、死んでから暫く成仏できずに現世で幽霊生活をしていたというのに何を今更。

と、そのまま口に出せば、困ったような苦笑いが返る。一見、気の弱そうな、それでいて後悔一つ感じない表情をするのだから、器用な人だ。

少し空いた間の中を、目の前を蠢く金魚草のびちびちという音が泳いだ。
…結局、堅苦しく応接間に通すよりはと、中庭のベンチに腰を据えてはみたが、まあ間違ってはいない選択だろう。下手に閻魔殿の室内だと、私も彼女も仕事モードが抜けないだろうし、だからと言って外の店に入ればさっきのように周りの目が気になる。自分に下心があるだけに、うっかりゴシップ誌の小判さんにでも会ったら面倒だ。彼女の立場もある。

女性を誘う場所としてはイマイチだろうが、大王に念を押しただけあって、そういう意味でここは安全だ。ゆっくり話すとしよう。



「まあ、お茶でもどうぞ。」

「ありがとうございます。」

「あと、これはお茶請けに。」

「あ、プリン。」



差し出した一皿に、巴さんの瞳がキラリと輝く。そう、これは彼女の現世での何よりの好物、プリン。勿論、生前の記録を確認済みの情報だ。
卑怯だと言う勿れ、駆け引き即ち勝負となれば、情報量は出だしを大きく左右する。

──が、その瞳が光ったのは一瞬だった。彼女は礼を言って微笑みながら受け取るが、皿の上に添えたスプーンにはなかなか指が絡まない。……?



「…生前、プリンがお好きだと聞いていたんですが。」

「はい。そんな事も記録されちゃうんですね、恥ずかしいなあ…。」

「今はあまり食べたくありませんか?」

「あ、いやいやそういうわけでは!わざわざ合わせて用意してもらって嬉しいです。」

「?では…」

「いや、その…久し振りだなあ、と。」

「…ああ、色々と思い出させてしまいましたか。」

「それもあるんですが、……物を食べるのが久し振りで…。」

「ちょっと待って下さい今何で言いましたか。」



聞き捨てならない言葉が聞こえた気がする。食べるのが久し振り?現世で浮遊霊をしていた時なら話は分かるが、地獄に来たからには空腹は感じる筈だ。何より、判決の下されていない彼女の生活の保障はこちらで確かに手配している。

ではどういう事だ。思わず目を細めて隣を振り向けば、巴さんは困った笑みのまま小さく肩を竦める。



「えーと、今日会ったら訊こうと思ってたんですよ。」

「何か派遣先で困ったことでも?」

「いえ、派遣先では良くしてもらってます。困ってるというか…困ってはいないことなんですけど、」

「…?はい。」

「食べ物の味がよく分からないんです。」



……味が、分からない?



「派遣先で初めて食事をした時に気付いたんですけど、全然、味がしなくて。何となく甘いとか辛いっていうのは、色とかで感じるような気はしたんですが、凄く変な気分になってしまって。なので驚いてしまって、暫く食事避けてたんですけど、不思議な事にお腹が空かないんです。しかも体も割と問題なくて、よく考えたら怪我とかも痛みも気付かなくて、暑いとか寒いとかも感じないんですよ。これって、そういうものなんでしょうか?」

「…身体的な感覚がないということですか?」

「はい、多分。血とかはちゃんと出るんですけど。」



と、彼女は頷きながら小袖を捲り、仕事中にでも擦りむいたのか、腕に貼った絆創膏を剥がしてみせた。そこは確かに瘡蓋が張りかけた小さな傷があり、絆創膏の裏には地の滲んだ跡。

試しに、その傷に沿うように爪を立ててみる。徐々に力を入れながら様子を窺うが、彼女の顔色は変わらず、痛みに腕を引くこともない。そうしている内にプツ、と小さな音がして、爪の下から赤い地が溢れた。



「、すみません。」

「あ、大丈夫です大丈夫です。痛くないので。」



持ってきたおしぼりで傷を押さえようとするより早く、彼女は絆創膏を張り直すと、自分で持っていたらしいハンカチを取り出して、逆に私の爪を拭う。

そっと添えられた手はとても小さい。先程、どさくさに紛れて手を握った時も思ったが、女性と言うよりはまだまだ子どもと言った方がしっくりくるような手だ。ひんやりとしてほんのり温いその感触に、うっかり思考を引っ張られそうになるが、何とか堪えて口を開いた。

今の話が本当なら、これは特殊輪廻法に於いて新しいケースになる。



「質問にお答えすれば、今までその様な事例は確認されていませんね。」

「え、そうなんですか?」

「特殊輪廻法自体、引っかかる人の方が稀なんです。ですから、今から話すことはあくまで推測になりますが…」

「はい。」

「貴女の魂の片割れである双子の兄がまだ現世に在るということは、厳密に言えば貴女の存在は完全に地獄に在るというわけではないと考えられます。肉体を失った後も現世に霊体で留まった貴女は、所謂幽霊でした。極端に言えば、貴女は今もまだその状態に近いのかもしれません。」

「幽霊。」

「不完全さで言えば近いと思います。魂─即ち精神の半分が、此処地獄に。もう半分の魂と、味覚や痛覚などを強く感じで生きる肉体は現世に。色々憶測でものを言いましたが、他人が理屈を並べるよりも、こういう事は本人の方が分かっている筈です。双子というのは、本人達にしか分からない感覚があると言いますから。」

「…そうですね。」



彼女は視線を膝の上のプリンに落とし、何か心当たりがあったのか、少しの間黙った。その横顔は穏やかで、幸福そうにも見える。

兄を、思い出しているのだろう。彼女にとってその存在は、大きいなんてレベルではなかった。彼女そのものだった。自分を守るように兄を守った。死ぬまでずっと。

兄弟はおろか肉親すらいない自分には、きっと一生、心からの理解はできない感情だ。他人であって他人ではない関係。そこには他者が入り込めない何かがある。

入り込みたいとは思わない。入り込める筈もない。ただ、勝手ながら彼女を想う身としては─今は隣を得る身としては、その魂の肉体全身で、兄とは言え他の男を思われるのは、とても気に食わないのだ。



「…まあ、あくまで推測です。詳しくは閻魔大王にも報告して、できる限り調べてみましょう。」

「あ、いえ、今ので納得しちゃったのでそこまではいいですよ!生活する分に支障は無いですし、寧ろ便利なくらいですから。食費も浮くし、暑い所も寒い所も楽に行けますよ。」

「しかし、血が出るということは体に負担はあるわけでしょう。貴女が感じ難いだけで。」

「うーん、そうなんですかねえ─。」

「食事もまた然り。味を感じないとは言いますが…」



首を傾げる彼女の手の中から、プリンの皿を奪い取り、スプーンで一匙掬う。ふるりと震えるそれを巴さんの目の前に突き出せば、茶色の瞳が丸くなる。



「貴女は巴という、たった一人の人物として、たった一つの人生を生き、そして死にました。貴女の兄とは別の、貴女だけの人生で、プリンを好きになり、色々と痛い目に遭い、痛い目を遭わせ、癒やし癒やされ、そうして死んだのです。貴女の魂はそれを全て覚えているでしょう。」

「……。」

「大丈夫、これを食べても豚にはならない。噛んで食べなさい。」

「…ジブリ?」

「間違えました、よく思い出しながら食べなさい。」



巴さんは少し躊躇ったが、大人しく私が差し出したスプーンの先を口に含んだ。

薄い唇が閉じ、モグモグと頬が動く。柔らかいプリンを噛むには些か長すぎる咀嚼が終わると、彼女は一度こちらを見てから、俯くように瞼を伏せた。




「おいしい。」





彼女の為に何かしたいと、思うだけでは独り善がりだ。

今度こそ彼女よりも先に伸ばしたおしぼりは、落ちかけた涙の珠を拾う。そのまま頬を伝って目元に当てれば、巴さんはそれを受け取り口元だけで笑った。



「すみません、何か急に、」

「いえ。ある意味で貴女の立場は、地獄に堕ちた亡者達より辛いかもしれません。己の罪を裁かれ、刑を受ける間は、その罪と向き合う以外はあれこれと考える暇もありませんから。」

「いやあ…どう考えてもそっちの方が辛いですよ。自分の罪を公平に判決してもらえるのは、自分と向き合うのが苦手な人間としては、とてもありがたい事ですけど…似たような事、今補佐官さんにしてもらいましたから。」

「…そうですね。しかし、今の貴女は裁判保留者、この地獄で働いて頂いている以上、地獄の一般市民と変わりありません。」

「?はい。」

「ですから、貴女が今言った“似たような事”は、閻魔大王の補佐官としてした事ではありません。巴さん、貴女の知人として流れで結果似たような事になっただけです。」

「は、はあ。」

「ですから、……」

「???」



名前で呼んで下さい。

と、そう続ければいいだけなのに、何故か一向に口から言葉が出てこない。彼女に限って断ることはない筈だ。羞恥心と言うものは他人より少ないと自覚しているし、この程度の望みは知人の範囲内だろう。

なのに、何故こうも気後れをする。妙に言い難く、胸というか胃の辺りがムズムズとこそばゆい。柄にもない事をしている自覚はあるが、自覚があるだけにこんなにも言い淀むとは。

思い返せば、迎えに行った時も相当挙動がおかしかった気がする。下戸の二日酔いは兎も角、桃太郎さんには少し悪い事をしたかもしれない。






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