「…おかしいと思います?」

「…いいや。私には、羨ましい限りだ。」

「え、羨ましい?」

「忍に向いていないと、よく言われる。感情を優先し過ぎるからだ。私自身も、それは判っている。」

「…はい。」

「だが私は…私が此処に、謙信様のお側に居る為には、私は忍でなくてはならない。鋭く美しい、謙信様にお使い頂ける剣であらねばならない。しかし私が忍として生きる目的は─余りに忍の本質とかけ離れている。…この迷いが、いつか剣としての煌めきを鈍らせることになったとしたら…私は死んでも死にきれない…!!」



ほら、今だって、私はこんなに浅ましく弱い胸の内を吐露してしまっているじゃないか。言葉と行動が矛盾している。こんな事は黙っていれば済む話だ。信用したとは言え、それこそ身元も知れないこんな娘に、何を。

忍としての己が己を叱責する短い瞬間に、ふわりと甘い香りが鼻を擽り、かすめ取られたように思考が止まる。これは─金木犀の香りだ。香とはまた違う香り。いつも巴の髪から香る、甘く優しくも切ない、巴そのものを表す、香り。




「いいじゃないですか、かすがさん。かすがさんは、そのままでいいんですよ。」




いつの間にか目の前に膝を付いていた巴が、そんなことを言う。そんな、ことを、



「かすがさんは多分、生まれた頃から忍として忍の中で生きてきたんですよね?」

「…そうだ。」

「だからですよ、悩むのは。忍はこうでなきゃいけないって思ってしまうから、定義に無理矢理自分を嵌め込もうとするから苦しむんですよ。人なんて形も大きさも様々なんですから、びったり嵌るわけがないです。」

「、っ…だが!それこそが主の望む忍の姿だ!だからこそ我々は、先代から先代へと教えを受け継ぎ、そう成るように生きてきたのだから…!」

「それを上杉さんは望んでるんですか?」

「っ…!!と、う然だ…!人の成せぬ暗躍を成すのが忍!謙信様も私にその働きを期待なさって、私はお側に居る!私はあの方の剣なのだから!」

「そうですか?」

「な、…!」

「上杉さんは確かにかすがさんを剣って言いますけど、何て言うか…こんなに情熱的な剣なんて、本来無いですよね。」

「うっ…」

「でも上杉さん、最初からそれを知って、かすがさんを今、剣と呼びます。それは、冷徹で本物の刃のように使い勝手の良い忍であることを望んだからじゃないですよ。情熱的で、上杉さんが大好きで、頑張り屋さんで、優しくて、定義に当て嵌ってない忍のかすがさんが、側にいて嬉しいと思う、誇りの言葉ですよ。」

「っ…、」

「実際、忍が世に言う汚い仕事をしなきゃいけないのは、分かってます。綺麗事だけじゃ、大切なものを守れないことも。でも、本当はかすがさん、迷いなんてない筈です。上杉さんを愛してるから、何だって頑張るっていう気持ちが全てで生きてるじゃないですか。自分の気持ちに正直な状態の意志の強さと、自分を脅して強がってる状態の意志の強さじゃ、ぶつかった時の勝ち負けはもう決まってるようなもんです。」

「……お前は、…。」

「日ノ本はとても小さい島国なんですよ、他の国と比べれば。かすがさんの迷い原因は、その小さな島の中の、小さな忍という閉じた社会の、小さな定義です。忍の歴史を貶したいわけじゃないですけど…外から世界を見てきたあたしの意見も、少しだけ足しにして頂けたらと思います。」

「………。」

「大体、上杉さんは毘沙門天の化身なんですから。かすがさんも、もっとスケールを大きくいかないと!まあかすがさんは、間違い無く世界で通用する美貌ですけどね。」

「………。」

「かすがさん。」

「……すけぇる、とは、どういう意味だ。」

「えーと、規模とか、目盛りみたいな意味です。」

「…成る程な。」



呟き、落ちていた頭を持ち上げて、自然と口元に笑みが浮かべば、巴は嬉しそうに笑った。

元々はコイツの話をしていた筈が、はぐらされたか。…否、そうではないのか。

コイツは私が思うより、ずっと広く世界を見ている。物事を客観的に見ることもできる。何より─



「…お前は、兄を見つけたその時に、刃を捨てるのだろう。」

「流石はかすがさん。解ってらっしゃる。」



コイツには、大切に思う者がいる。他人の常識を覆しながら受け入れるような、変なところで器用で、馬鹿みたいに甘く優しいこの少女が、こんなにも深く愛する者がいる。…私にとっての、謙信様の様に。

執心に溺れる女が弱くなるなど、誰が言ったのだろう。冷静に在るが為に捨てる物があるように、心に従うからこそ壁になる物がある。苦しむのはどちらも同じ事。

ならば私は、この身を賭けて壁を越えて行こう。そして巴は、心に刃を当てて進むことを決めたのだ。私達の違いは、ただそれだけ。根本にある願いに、恐らく大差は無い。



「巴なら、きっと兄を見つけ出せる。これは同情でも何でもない、ただの確信だ。…お前の旅路の多幸を、私は此処で祈っていよう。」



絵姿の最後の一筆は、三日月の弧を描いて収まった。目の前にあるその口元に同じく、希望に溢れた明るい笑顔。

はい!と、しっかり返事をした巴に、怖いものは何も無い。



無いと、思っていたのに。












「あの、ですから、半年前に滞在させて頂いた、巴と言うんですが…」

「待て待て!今かすが殿にこちらに来て頂く!かすが殿とも面識があると言うのならば、それで確認が取れ次第…」

「何があった。」

「かすがさん!」

「か、かすが殿!…実はこの娘が、謙信様にお目通りを申し出てきているのですが…以前此処に滞在をしたと言っていて、謙信様とは知り合いだと言い張るもので…」

「…謙信様のお知り合い?おい貴様、名を名乗れ。」

「えっ…、と、巴…です…。」

「巴…?聞かない名だな。以前滞在したというのは何時の話だ。」

「…半年前の、一か月間と、戻ってきてからの、二日間、です、よ…。かすがさん、…あの、あたしのこと…忘れて…?」

「…妙なことを言う。忘れるも何も、私は貴様と面識は無い。この城に滞在させた覚えも無い。よって謙信様の御前に通すわけにはいかない。要件は聞くだけ聞いてやろう。」

「……そう、ですか…。じゃあ…慶次さんは、今此処にいますか。」

「慶次?何だ、貴様慶次の知り合いか。アイツなら今朝こちらに…」

「呼んだかい、かすがちゃん?」

「慶次、貴様…城をふらふら動き回るなと何度言えば…!だが丁度いい。お前に客だ。ついでにこいつと共に帰れ。」

「え、俺に?この子がかい?」

「…お久しぶりです。」

「ええと…ごめん、何処かで会ったこと、あったかな?こんな可愛い子と知り合ったら、忘れる筈ないんだけどなぁ。」

「……。」

「えっ!えっ!?ご、ごめん!今思い出すから!そんな暗い顔しないで…」

「ふん、どうせ放浪先で、軽い気持ちで遊んだ相手だろう。」

「断言しないでかすがちゃん!違うよ!た、多分…!」

「多分か。最低だな。」

「誤解だって…!!」

「かすが、けいじ…なにをしているのですか。」

「!!謙信様っ…!」



門の前で慶次が一人狼狽えている間に、後ろからひやりとした高貴な気配を感じて振り返れば、そこには謙信様のお姿が。

何故謙信様が此方に…?不思議も思ってお訊ねするよりも早く、謙信様は薄く微笑まれる。よき客人でしょう、と。



「い、いいえ、慶次の知り合いだそうですので、謙信様のお手を煩わせる事では…!」

「ご、ごめん謙信。ちょっと俺思い出せなくて…」

「…?そこにいるのは、ともえではないのですか。」

「へ?」



今度は謙信様が疑問を感じられた様で、聞き慣れない名を紡ぐ。その視線は、ぽかんと間抜けな顔を晒す慶次のその向こう─見知らぬ少女のいる場所に注がれており、またその少女も、この世の終わりと言わんばかりの顔をハッと上げた。

二人を何度か見比べた慶次が、無意識の内に横にズレる。謙信様の涼やかな目が少女を捉えたその一瞬、耳が痛い程の沈黙に包まれた。



「…、…ぁ…」

「これほどまでにながいろくのつきは、しょうがいあじわうことはないでしょう。そなたのみをあんじ、ほとけへのいのりをかかしたことは、いちにちたりともなかった…。」

「え…謙信の知り合いなのかい?」

「ま、まさか…!謙信様の知己に私の知らない娘がいるなど…!」

「う…えすぎ、さ…。」

「…そのみにふこうはなかったようですが…ほとけはそなたに、つらいしれんをあたえたようですね。」



我々が困惑する姿を一瞥された謙信様は、この場で唯一人、全てを察した瞳で少女を見つめた。そのお顔は僅かに陰りを帯び、同情の色が滲む。

差し伸べられた細く長い指が、少女の髪を掠め頬に触れた。私の心には、状況を理解するより先に、嫉妬の火種に炎が点る。いけない。忍が状況把握もせずに、こんな個人的な感情を燃え上がらせては──




『かすがさんはそのままでいいいんですよ。』




「、っ…!?」



一瞬の葛藤の中で、誰かの声が思考に響いた。誰だ、今のは、誰の声だ…?忍の私に、そんなことを、そんな甘い声で、言い聞かせるように告げたのは──




「……上杉さんは…っあたしを覚えていますか…!?」




引き絞るが如く上がった声に、私の中で何かが弾ける。と同時に、私は気付いた。私は、何かを忘れている。大事な何かを──否、誰かを─



「ええ…そなたは、びしゃもんてんのかごをたまわりし、かたがいのむすめ。わたしのたいせつなとも───ともえ。」




そうして私は漸く、取り返しのつかない失念をしたことを理解したのだ。その場に泣き崩れた少女を見て、謙信様が繰り返す女の名を咀嚼して、慶次が大声を上げたのを聞いて、そして、




「みんな覚えていないんです…みんなあたしを忘れるんです…!慶次さんの叔父さんの利家さんも、まつさんも、慶次さん自身も、かすがさんも…!!回った土地も、みんな知らない名前で、ほ、本当は、あたし、故郷の大体の場所は、覚えててっ…、でもそこには全然知らない村しかなくて…!!慶次さんに地理を教わった時、こ、怖くて、そこは、全然知らない国が治めてる場所で、一緒に、行けなかった…!!たった数年で、こんなに変わるんでしょうか…!何処に行っても、知ってる地名が一つもないなんて、あたしが子どもで、馬鹿で、記憶違いをしてるだけなんでしょうか…!?知らない場所で、知り合った人にも忘れられて、これじゃあ、あたし…!あ、あたし、は…!」





此処に存在しちゃいけないみたいですよ。





か細く叫んだ巴の姿を見て、私は漸く気付いたのだ。

巴という存在を、完全に忘却していた事に。








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