日課である道場での朝練を終えて、あたしは涼しい朝の空気の中、学校に向かってゆったりと自転車を走らせていた。
車も通らない無音の道を暫く進むと、カキン、カキンと、今日もまたいい音が聞こえてくる。
音の元は、道場の近くにあるバッティングセンター。誰が練習してるのか、いつも朝早くから軽快なバッティングの音がするのだ。
いやいや朝からお疲れ様ですと心の中で呟いて、いつものように建物の横を通り過ぎようとしたその時、ふと視界の端に人影を捕らえて、無意識に振り返る。
「あれ?沢田さん?」
見覚えのある姿が、あたしの名を呼んだ。
【山本 武】
「やっぱ沢田さんだったんだなー。おはよ。」
バッティングセンターから出てきたらしい黒ジャージの男子が、そんなことをいいながらこちらに走ってきた。
今…名字呼ばれたよね?え、誰だっけ。
知り合いならすぐ分かる筈なのに…と、段々近付いてくる人物に目を凝らす。背は高いけど、多分同じ並中生。黒髪短髪、ちょっとだけ寄った眉根の下には、吊り目がちな大きな瞳……
あ、この人。
「山本君?」
「そ、山本。」
山本君─本名、山本武君は、うちの学校じゃちょっとした有名人だ。まだ一年なのにスタメン入りをしている野球部の期待の星で、人当たりも良く、男女問わず人気者。…らしい。
何故‘らしい’なんて曖昧かというと、今の紹介は山本君ファンの友達のうけうりで、あたしが直接知っていることなんて、『最近ツナと仲良くしてくれているいい人』程度。
元々野次根性がないから、他の子達が黄色い歓声を上げながら試合見に行った時も行かなかったしなぁ。
とかぼんやり思っている内に、すぐそこまで来ていた山本君は、朝から素晴らしく爽やかなお顔と声でもって話を続ける。
「何かツナに似てるなーと思ってさ。すぐ応えてくれなかったから、一瞬人違いかと思って焦った焦った。」
「あ、ごめんね。ジャージ姿初めて見たから判らなかった。朝からバッティング練習?一年スタメンも大変だね。」
「まーな。そういう沢田さんは?何か部活してたっけか。ツナは帰宅部だろ?」
「ううん、部活じゃなくて少林寺。習ってるの。」
「マジで?すげー。」
「いえいえ、山本君にはおよびません。」
改まった口調で返してみると、山本君は可笑しそうにはははと笑った。
うーん、初めて話したのにも関わらず、このフレンドリー加減。女子やツナが一目置くのもよく解る。これは生粋のいい人だ。
「んじゃ、俺行くな。これから帰って着替えねーと。」
「うん、お疲れ様。」
「ああ、沢田さんもな。」
軽く手を挙げて挨拶する山本君を少し見送ってから、あたしは再びペダルを踏み込…もうとして足を止めた。
あー、そういえば。
「山本君ー。」
大分小さくなってしまった背中に向かって声をかけると、聞こえないかなと思いきや、案外あっさりと振り返る山本君。耳いいねえ。
「あのね、名前ー。」
「名前ー?」
「うん、何か沢田さんって呼ばれるの変な感じだから、巴でいいよー。」
と言うと、山本君はちょっときょとんとして黙る。
…ん?ツナのことツナって呼んでるんだし、男子からさん付けってあんまり好きじゃないから(と獄寺君にも言ったんだけど、頑なに聞き入れてもらえなかった)言ってみただけなんだけど…。なんか変なこと言ったかな、あたし。
返ってこない返事に不思議がっていると、山本君は唐突に、芸能人顔負けの満面の笑顔を浮かべる。おう…眩しい…。
「んじゃ、巴、またな!」
「…うん。また。」
─ああ、やっぱり爽やか野球少年。つられてあたしも笑んでしまった。
この後、名前で呼んでいいなんて言った事をひどく後悔することになるとは、全く思いもせずに。
「巴ー。」
ざわっ。
午後の授業の休憩時間に、嵐はやってきた。
一瞬クラスが─否、クラスの女子の視線が、教室の扉の前に立ってあたしの名を呼ぶ姿に集中する。
「あ…山本君。」
気付いて応えると、今度はあたしに大変痛い視線が集まるときた。
こ…怖い…。『なんで山本君に名前呼ばれちゃってんの』的なメッセージがひしひしと伝わってくるよ…!誤解しないで乙女さん達…!!
とりあえず、そんな女子事情を知ってか知らずか山本君が手招きをしてくるので、あたしは周りの視線をなるだけ見て見ぬフリをして扉までたどり着く。
「な、んでしょうカ。」
「何でカタコトなんだ?」
「いや…ちょっと、デスネ…」
そりゃカタコトにもなりますって。乙女のジェラシーが背中越しに伝わってくるんだよ!?…とは言えない…流石に…。
「やっぱ面白い奴だなー、お前。あ、これツナに渡してくれねぇか?今日ツナ休みなんだ。」
と、山本君が手渡してきたのは補習のプリント。ツナの奴…ズル休みしたな。
「今日は何か獄寺もいねーからさ。渡せる奴いなくてな。」
「あ、獄寺君まだ帰ってきてなかったんだっけ…」
「アイツどっか行ってんのか?」
「あー…里帰り?」
間違ってはないよね、ただ…ダイナマイト仕入れに行ったってことを言ってないだけで…。
「ふーん…巴も仲良いんだな、獄寺と。」
「まあそれなりに。じゃあ渡しとくね、コレ。」
「ああ、よろしくな。」
何気なく退散を促すと、ひらひらと手を振って帰っていく山本君。嵐が去った…。
と、安堵したのも束の間。くるりと回れ右をすれば、そこには妙に気迫たっぷりな山本君ファンの皆さんが。
「ね、何で武君に名前で呼ばれてるの。」
「なんかすごい親しそうだったよね。」
「巴ちゃんて別に武君と知り合いじゃなかったはずだよね。」
笑顔で詰め寄ってくる彼女達に囲まれるというのは、そりゃあもう、
最上級の、恐怖。
「へー…山本モテるからなあ。」
「お陰で大変な目に合ったよ、もう…」
帰宅して夕食の席、あたしは今日の午後からの恐怖体験をツナに語っていた。
あの後、結局帰るまでずっと彼女達はあたしを敵視していて、肩身の狭い気持ちを存分に味わったのだ。やっぱり、恋する乙女は凄まじい。
「でも、山本いい奴だろ?気さくだしさー。」
ツナはまるで自分のことのように嬉しそうに言う。珍しいな。
「確かにツナなんかと仲良くしてくれてる所とか、いい人だよね。」
「なんかってお前なあ!」
ツナは、最近山本君と非常に仲良くなった。
なんでも過剰な練習で腕を痛めてしまい、思い詰めて自殺しようとした山本君をツナが死ぬ気で助けたとか。あの人が自殺とか…考えられないからこそ怖いなあ。ツナが助けてくれて本当によかった。
で、それがキッカケで山本君はツナを気に入ってくれたらしく、最近はよく学校で楽しげに話しているのはあたしも良く見かけていた。
…ああ、だから今までなんの接点もなかったあたしに話しかけたのか。いやしかし。
「気さくなのは良いけど…他の女子から敵視されるのはキツいなあ…。」
「ま、まあ明日になればちょっとはほとぼりも冷めてるんじゃねーの?」
そりゃあね、みんな根はいい人達だし。でも、元はと言えば、ツナがズル休みしたからだよね。
「だ、だって今日獄寺君もリボーンもいなかったから、寝過ごして…っていうか、いっつもリボーンに任せっきりだから、母さんにまで忘れられてたんだよ!?」
「うん、そこは自分で起きようか。」
「うっ…。」
それこそ、自主的に朝練してる山本君を見習って欲しいとこですぜ、お兄さん。
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