彼女はいつも、妙なものに好かれる。
この話では果たして、好かれていたのか嫌われていたのかは、分かりかねるけれど。
「雲雀さん。」
「何?」
「そろそろ帰らせて頂きたいのですが…。」
その日は特に変わり映えもしない、極々普通の初夏の放課後だった。
控え目ながらも疲れが滲む声に、応接室の壁時計を見れば、六時二十分過ぎ。そういえば、少し前に下校を促すチャイムが鳴っていたかもしれない。その時に声をかけず、たっぷり様子を窺ってから切り出すのが彼女らしい。
「というか、委員でも無いあたしに委員会の事務作業させるのはちょっと…って毎回言ってるんですが。」
「委員達は最近群がり始めた草食動物の駆除に行ったから。」
「ああ…だから今日は草壁さんがいないんですね…。」
何だか遠い目で彼女が呟くと同時に、ノックの音が軽く響く。扉が開けば、彼女が口にした草壁がタイミング良く帰って来た。応接室にこの二人が揃っている空間は、最近、割と見慣れた光景だ。
「戻りました。」
「お帰り。もう上がるよ。」
「はい。…沢田、いつも悪いな。」
「あはは…いえ…。じゃあ、あたしは先に帰りますね。」
「送って行くから少し待ちなよ。」
「ああ、いいですよ。普段もっと遅い時間に一人で帰ってますし。ていうか雲雀さんバイク…」
「俺も委員長に賛成だ。この時期は不良が湧く。」
「えええ…寧ろお二人が不良じゃ」
「草壁、資料確認して。」
「はい。」
「連携スルー止めて下さい…。」
それでも彼女は扉を無理矢理突破することなく、その場に留まる。懸命な判断だね。
そして今、作った資料を草壁が確認している間に、手を洗いに行きたいと言う彼女に付き合って、僕らは同じ階にある廊下の端のトイレに向かっていた。
「いやいや、雲雀さんは付き合わなくてもよかったんですよ。」
「逃げられたら困るからね。」
「鞄置いてきたじゃないですか…!」
大して大きくもない彼女の声が廊下に響くほど、校舎には人気がない。日直の教師も既に帰ったと草壁から聞いていたから、校内にいるのは自分達三人だけか。
「おかしくないですか。先生が先に帰るとか。」
「普通だよ。校内の鍵は草壁が持っているし。」
「はぁ…。あれ?」
ぽつりぽつりと話しながら廊下を曲がったその時、彼女が不思議そうに声を上げる。つられて前方を見れば、薄暗い廊下の最奥─男子トイレがぼんやりと光っていた。恐らく、消し忘れだろう。さっきも言ったが人の気配は感じない。
「消し忘れですかね?消してきます。」
同じことを思った巴さんが、一足先に手前の女子トイレを越えて男子トイレの入口へと向かう。中に入らなくても、手を伸ばせばすぐにスイッチがあるのは女子も男子も変わらない。念の為か、彼女は「誰かいませんかー」と一言かけてから、返事が返らない一拍後、ぱちりと電気を落とした。
その時。
ダ ン
「、」
電気が消えたと同時に、天井全体に何か巨大な物が落ちてきた様な、無駄に大きな音が響いた。
一発だけのそれは、余韻も残さず瞬きの内に過ぎる。シンと静まり返る元の静寂の中で、動き出した思考は疑問を沸き上がらせた。
今のは、何の音だ。
「雲雀さん、戻りましょう。」
人はいないし、上の階も同じくトイレ、と、音の正体を割り出す前に、手を洗いにここまで来た筈の巴さんは、女子トイレにも入らず踵を返す。
横を過ぎる瞬間、彼女は僕の腕を掴んだかと思うと、有無を言わさず廊下を戻り始めた。
「ちょっと、」
「はい、何ですか雲雀さん。」
「今の音、」
「音なんかしましたか?あたしは何も聞いてないです。手なら帰る前に、下の水飲み場で洗えばよかったですよね。」
…明らかに返答がおかしい。分かり易いなんてものじゃないくらいに、これはあからさまな嘘だ。あの音がした瞬間、彼女は僕と同じく固まっていた。そして何かに気付いたように、振り返って──…“何“に気付いたと言うのだろう。
結局、応接室に入り、そのきつく握られた手が解かれるまで、彼女は一度も振り返らなかった。
「…沢田?どうした、顔色が、」
「戻りました、草壁さん。帰りましょう。」
「あ、ああ…。」
巴さんが僕の腕を引っ掴み先導するという、いつもならまず有り得ない状況で戻ってきた僕らに、草壁が目を丸くするのも仕方がない。しかし、尋ねかけた言葉は、普段聞き上手である彼女によって遮られてしまい、異様な威圧感を醸し出す姿に大人しく従ってしまっている。
…違う、これは威圧感じゃない。鞄を肩にかけ、両手でしっかりと持ち手を握る彼女を、正面から見て感じ取ったのは、張り詰める気配、強張った顔、そして只なら無い緊迫感。
─これは、恐怖に押し潰されない為の虚勢だ。
「雲雀さん。」
僕が口を開く前に、名前を呼ばれ見つめられる。巴さんはそれ以外に何も言わないし、何も言わせない。
引き結んだ唇が腑に落ちないながらも、今は何も聞かずに従ってあげることにした。それだけの迫力と、真剣さがあったから。
「帰るよ。」
そして今度こそ、三人全員帰り支度をして、応接室を出る。──いや、厳密には、その時廊下に出たのは、初めに扉をくぐった僕だけだった。
バ タン
背後から乱暴に扉を閉める音がして振り返る。
そこには、いつもと何ら変わりのない扉。けれど、それは閉めてもいないのに閉ざされた状態で、すぐ後ろに付いてきた筈の巴さんと草壁の姿はこの廊下には無い。二人が出てもいないのに、扉を閉める理由も分からない。
間も空けず、ドアノブが激しく振動し始めた。向こうから回しているらしいが、何故か鍵をかけた時のように回り切らず、扉は一向に開かない。次いで、中から聞こえてきたのは、巴さんの焦った声と草壁の困惑した声。応接室の扉は厚い。防犯対策の為に僕がそうさせたのだが、声が遠い。
「…ばり…さ…!!」
「ま…鍵…のか?外…ら…委員長…」
「…何をしてるんだい。」
もし、誤って中から鍵を占めたにしても、僕が悪戯に外から鍵をかけたにしても、鍵を持った草壁がいるなら普通に中から開けられる。
勿論、僕は後者のようなくだらない悪戯なんてしてはいないが、試しに外から鍵を差し込んでみた。…?鍵、開いているじゃないか。
どういう事だとこちらもノブに手をかけた、次の瞬間だった。
本日三度目の大きな物音が響いた。一度目はトイレの謎の音、二度目は今の扉が閉まる音、どちらも共通していたのは、大きな音だが一発だけだったということだが、三度目は違った。
ガチャン バリン ガタガタ ゴトゴト ガシャン キイキイキイ
まるで部屋の中で嵐が起こったかのような、凄まじい破壊音が鳴り始めたのだ。
その音は、僕が回らないノブを手放して、トンファーで砕き、扉を蹴り倒すまで続いた。いや、蹴り倒したと同時に止まったと言った方が正しい。時間にしてたかだか十数秒の間だったが、トイレでの音に比べれば、酷く長い間鳴っていた気がする。
「…何だい、この有り様は。」
開いた扉の中で見たものは、ほんの十数秒前とは似ても似つかぬ状態だった。
物音から想像はしていたけれど、何がどうなってこうなるのだろうか。花瓶を始め、棚や机の上の物は全て床に落ち、割れ、ブラインドはズタズタ、ソファーや机などの大物までもがひっくり返って倒れている。しかも、普通に倒したにしては元の位置から随分動いた場所にあったり、花瓶の水らしき液体が花瓶自体が倒れている場所から真逆の壁を伝っていたのだから、尚更訳が分からない。
そしてその下には、片膝をついて身を低くしていた草壁と、彼を庇うように上に被さっていた彼女の姿が。
「ぃ、…委員長、」
「何があったのか聞きたいけど、それは後だ。」
恐る恐ると顔を上げた草壁、それにつられ、そっとこちらを見た巴さんの青い顔と、何かぶつかったのだろう、ワイシャツに血が滲む背中を見て、自分の殺気が膨らむのが分かった。
それと同時に、妙な気配を一つ感じ取ってトンファーを握り直す。姿は見えないし、さっきまで自分達以外の気配は無いと思っていたけど…どうやらそうじゃなかったみたいだね。やってくれたじゃないか。
「雲雀さん!扉の上です!!」
彼女の言葉が終わらぬ内に、トンファーは扉の上─天井に近い壁を抉っていた。
そこに見えるものは何も無い。手応えも無い。けれど確かに、室内の空気が変わった。ふわりと軽くなったような、そんな感じに。
「…!?今のは…?」
「それより草壁、巴さんの背中の手当てを。」
「、っ!沢田!」
「あ、はは…大丈夫です大丈夫です、掠っただけなので。……雲雀さん。」
「何。」
「……ありがとう、ございました…。」
何に対してか謎の礼を口にしながら、彼女は力無く笑う。ようやくいつもの様に、へにゃりと頬を緩ませて。
彼女の様子がおかしかったのは、ほんの僅かな時間だったというのに、不思議なものだね。
多分、僕も草壁も、彼女がいつもの彼女に戻ったことに、何より一番安堵したのかもしれない。
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