「今日はなんだか賑やかですね」

徹夜明けの寝ぼけ眼を擦りながら訪れたいつものパン屋さんの、ガラスウインドウから見える光景がいつもと違っていた。穏やかな雰囲気が自慢の商店街を、興奮した面持ちで駆けて行く人々。はて、何かお祭りでも有ったかしら? 首を傾げた私に、恰幅と気立ての良い女将さんが、私が頼んだのよりもだいぶ沢山のパンを袋に詰めながら驚いたように声を上げた。「あら、アンタ知らないの?」

「向こうの広場でトークショーやってんのよ、ヒーローの」
「…ヒーローの?」

思わず問い返してしまったのは、困ったことに私には、そのヒーローとやらを職業にしている知り合いが8人もいるせいだった。8人の顔がそれぞれ浮かんで来て、それぞれ個性豊かに手を挙げて主張を始めるものだから、また首を傾げる羽目になる。

「ええと、どのヒーローですか?」
「ん? なんて言ったかしらねぇ… ほらあの、ハンサムな子よォ。はい出来た!」

あ、なるほど…。たったそれぽっちの情報で、最早1人の顔しか浮かんで来なくなったことに苦笑しつつ、ぎゅうぎゅうに詰まったパンの袋を受け取った。「あの、これいつもより多くないです?」「サービスだよ!」


      


「参ったなぁ… 」

あまりの熱気に気圧されて、溜め息を吐く。折角だから少し覗いて行ってみようと軽い気持ちで広場に立ち寄ってみたのだが、どうやら心構えが足りなかったみたいだ。
真ん中に設置されたステージを取り囲むように、人の群れ。何十人… 何百人? 日本人の平均身長ギリギリな私(抱えたパンのおまけ付き)では、その人垣を越える事は難しい。数分辺りをウロウロして、ようやく少し高台になった芝生を見付けだした。やれやれ。それでも背伸びは欠かせないけど。

やっと見えたステージの上では、椅子に座ったバニーさんがインタビュアーの質問に応えていた。てっきりワイルドタイガーも一緒なのかと思っていたけれど、隣にその姿は無い。単独でのトークショーのようだ。単独でもこんなに人が集まるなんて凄いなぁ。彼が眩い笑顔を見せるたびに、会場が沸く。やっぱり人気なんだ。
感心していると、数人の女子高生が隣に駆け込んで来た。「ほら!バーナビー!まじで来てるじゃん!」「ウソォ、生バーナビー見るの初めて〜!」…生バーナビーって。まるで食材か何かのような言われ方に思わず吹き出しかける。

「いつ出動要請があるか分からないって、大変じゃないですか?」
「ええ、まぁ。ですが、事件は待ってはくれませんし、それが僕の仕事ですから。ああ、でも、シャワー中に呼び出された事もありますよ。あれにはちょっと、焦りましたね… 」

シャワーという単語に反応してか、女子高生達がまた声を上げる。「ね、ね、絶対良い体してると思わない?」「ヤダ〜想像しちゃったァ」素の彼を知っている私は少し不思議な気持ちで微笑った。バニーさん、こんな事言われてるなんて思ってもいないだろうなぁ。

ふと思い立って、胸に抱えたパンの袋を落とさないように気を付けながら、肩掛け鞄から携帯電話を取り出した。先ほど思い浮かべていたヒーローたちの本名がずらり並ぶメールボックスの中、一番上に『バニーさん』の文字。つい数時間前に届いていたそのメールを開く。

『しばらく顔を見ていませんが、また仕事ですか? すぐに無理するんですから、食事くらいはちゃんと採って下さい。』

シンプルで無駄の無い文面なのに、しっかりお小言が書いてある辺り、彼らしい。思わず笑みが零れた。バニーさんだって、私以上に忙しいはずなのにね。ステージの上で相変わらず笑顔を振りまいている彼を仰ぎ見る。

「本当に、有名人なんだな… 」

小さく独り言ちる。チクリ。彼がとても遠い人間になってしまった気がして、何故だか少し、胸が痛んだ。距離にしてたった数メートルしか離れていないのに、今は途方もなく遠い。手の中の携帯電話にもう一度目を落とす。文字はこんなにも近いのに。液晶画面をそっと指でなぞって、そのまま鞄の中に滑り込ませた。
もう帰ろう。腕の中のパンがまだ暖かいうちに、帰ろう。

去り際、踵を返す時、彼が不意にこちらを見たような気がした。だけど、多分気のせいだろう。こんなに沢山の人が居るんだもの、私に気付くはずがない。

「キャア!バーナビー、こっち見てない?!」
「えっマジ?!」

黄色い声を背に歩き出す。はしゃぐことも出来ない私は、どうしたら良いんだろう。どうせなら、きみのひとみのはしっこにでも、映っていれば良いのに、なんて。そんなのはきっと、とても贅沢な願いなのだ。


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