やわらかい日差しとふわりと残り香のようによく知った香水の匂いが鼻を掠めた気がして目を開いた。
さらりと慣れたシーツの感触が頬を撫でて、バーナビーはここが自室だと理解する。いつの間に眠りに落ちてしまったのだろう。直前の記憶がほつれてしまって曖昧になってしまっているのを無理矢理繋げようと起き上がるけれどどうにも上手くいかず、無意識にサイドデスクに置いてあるであろう眼鏡に手を伸ばした。
日差しは昼というほどには高くなく、緩やかな傾斜で部屋を照らし出している。まだ休日の街は起き出したばかりなのだろうか。そろりとベッドから脚を下ろし窓辺に寄れば、シュテルンビルトの街並みが円環の外までよく見えた。
顔にあたる朝の日差しがぼんやりとしていた意識をゆっくりと浮かび上がらせていく。よく見えるようになった視界で再度部屋を見回すと、眼鏡のあった隣にちょこんと携帯端末が置いてある。確かこれを夕べは眺めていたような気がしてそれを手に取ると部屋のドアが控えめな音を立てて開いた。
「あれ、起きちゃったの」
おはよう、といいながら名前が顔を出す。起き抜けに感じた甘い香りがまた空気に流れて、あの匂いは彼女のものだったのだと合点がいった。
日差しと同じくらいやわらかな声が耳に響く。よく寝てたから起こせなかったのよ、とドアをくぐりながら彼女は小さく笑って、ベッドの端に腰掛けた。
「おはよう、ございます。いつから来てたんですか?」
「さっきくらい、かな。今日お休みって聞いてたから居るかなぁって、思って。一応インターフォンは鳴らしたわよ?」
せっかくだから寝顔でも撮ろうと思ったんだけど、と彼女は携帯をちらつかせるが残念ながらさっきの今で眠れるわけもなく、ましてや寝顔を撮らせるために寝る気も起きない。むしろ人の寝顔などとって何か楽しいのだろうか。
どこか面白そうな含みをもった言葉が気になって彼女に向き合えば、間の抜けた電子音が室内に響いた。
「代わりに寝起きいただきました」
「貴女って人は…」
何しに来たんですか、と眼鏡のブリッジを押し上げながら呟く。
名前はぽちぽちとボタンを操作しながら、保存までをしたようで満足に何度かうなづくとやっと目をあげた。
「「ヒーローじゃない貴方に会いに」
ゆるく細められた、長い睫に縁取られた瞳がやわくバーナビーを捉える。
名前の前では違いますけど」
「ここに居るときはね。でもひとつ意識してしまったら、貴方はどこまでもヒーローのバーナビーなんだもの」
携帯のカメラレンズをバーナビーに合わせたまま、名前の唇が弧を描きまた電子音が鳴った。
今彼女の見つめる画面にはどんな自分が写っているのだろう。彼女の写したいものがきちんと写っているのだろうか。そもそも、ヒーローのバーナビーでない自分がどこからどこまでなのか、はたと考えに困ってしまう。
携帯を見つめる彼女に歩み寄って覗きこめば、なんのこともない、いつも通りの自分が写っている。多少気の抜けた顔をしているけれど。
「…面白いですか?」
「ええ。とても」
問えば名前は満足そうに笑う。これはいつもそうだ。バーナビーにとってそれがどれだけ不思議なものに感じていても、名前はバーナビーの記録を続ける。
彼女の携帯をその手から受け取り、今度は名前に向けてカメラを向ければ違うのよ、と首を振られた。
「ヒーローである貴方ももちろん含めて好きだけれど、できたら、できたらね。そうでない貴方もちゃんと覚えておきたいから。記憶なんて曖昧なものばかりで済ませておきたくないの」
白い指がカメラレンズを遮る。画面には何も写らずに、自分の顔が鏡のように映りこんだ。そのまま伸ばされた名前のもう片方の腕がバーナビーの腕を引き、そっと引き寄せられる。ふわりと舞った髪から甘い香りが放たれて胸がくらりと揺れた気がした。
じゃれるように巻きつく緩い腕に応えるように、名前の細い髪に指を挿す。
「でないと、貴方いつか全部ヒーローのバーナビーになってしまう気がして」
「…ないでしょう、それは」
「わかってる」
だからただのわがままなのよ、と笑う声が少し切なく優しく響いて、僅かに震える。
もし、もしそれがあるとするならば、名前がいなくなったときだろうし、それはこれから想像しうる未来からは想像できないことだ。そんなこと、考えたこともない。
「僕は貴女がいる限りそうはならないし、なるつもりもありません。貴女が僕を必要としてくれるなら、僕を覚えていたいと思ってくれるのなら」
「…貴方どれだけくさいこと言ってるか知ってる?」
「…知りません」
くすくすと、伺えない表情はきっと笑っているのだろう。暗に「らしくない」と笑われていることはわかっている。少し離すように言った答えは、多分彼女には拗ねたように聞こえたらしく、今度は堪えるのを諦めた笑い声が聞こえた。
「でもそういうところが好きなのよ、バーナビー」
「…知ってます」
笑いに震える腕ごと今度は抱いて名前もろともベッドに倒れこめば、色気もない声をあげてシーツに2人で沈み込む。それでも名前の笑い声は止まらず、冷めかけたベッドに温度が広がり、甘い香りが間近になる。
「じゃあ、僕からのわがままですけど」
「なぁに?」
どうせなら、2人の写真にしませんか。
1人では寂しいですから。
一瞬の沈黙の後、彼女はそうね、と目尻にたまった涙をぬぐいながら微笑んだ。