あの刺激



今日は珍しく向こうがウチにやって来た。

彼が家につく前にご飯を作っておいてあげようなんて殊勝な考えはなかったから、彼が家に到着してから悠々と冷蔵庫をあさり始めた私に彼はあからさまに不機嫌になった。

彼はこの行為に否定的で、態々作らなくたって食べに行けばいいのにと言ってニュースを見ている。
その実は明日からまた仕事だから少しでも一緒にいたいんだなんて言うんだろう。

その気持ちはわからなくもないけど。
今日は家で作るって決めてたからやっぱり付き合ってもらおう。

玉ねぎを切りながらぐすぐすやっていると、彼が後ろにやってきた。

「野菜ごときに泣かされるなんてだらしないね。いっつも腑抜けてるけどホント情けないな」

そこまで言うか。

「えーじゃあイルミ君がやってみてよ」

そう言ってまな板の前に立たせて、彼の背後でその長い髪を一つに結ぶ。

生まれてこの方、男子厨房に立ち入らずならぬお坊ちゃん厨房に立ち入らずを実地でしてきた彼は包丁なんて握った事がないんだろう。

「⋯⋯私、包丁を逆手で持つ人は初めて見た」

「え?ナイフはこうやって持つものだろ」

「違うよ」

確かに迅速に獲物を処理するにはうってつけの持ち方だけど今あなたが切らなきゃいけないのはその丸い玉だ。こうだよ、と持ち方を教えてやると「俺自分で料理ってしたことないんだよね」と予想通りの言い訳をしてる。

「玉ねぎってこの成分が辛いんだよね」

「ふうん」

「勝手に泣けてくるんだよ。イルミ君もなるから。絶対」

「ならないよ。大抵の訓練は受けてるからね」
なめてもらっちゃ困るねという風体で此方に涼しい目線を送ってよこす。

頭が良いだけあって物覚えは早くて、すぐに一定の速度で玉ねぎを刻んでいる。
そのドヤ顔から発せられた言葉通り目立った変化はない。

なんだつまらない。本当にやられてないじゃないか。

卿を削がれた私は調味料を探す為に台所下の収納棚を覗く。
目的の物を手にして腰を上げようとすると、頭を上から押さえつけられた。

「ちょっと、なに。立てないよ」

「ちょっと待って」

何か様子が変だ。
私が意地になって立とうとすればする程、押さえつける腕の力も強くなっていく。というかこいつ発使ってないか。絶対立ち上がらせないぞ!という強い意志を感じる。

「⋯⋯ティッシュ、ほしい?」

「⋯⋯」

手の力が緩んだその隙にするりと抜け出して、リビングに向かう途中に横目で顔を見る。
見開かれた両目が潤んでいる。ぽろりぽろりと涙を落とす姿はなんだか女の子みたいだった。

ティッシュを箱ごと掴んで彼の前に差し出す。

「訓練してるんじゃあ無かったのかな?」

「うるさい」

面白いものが見れた。
さすがの暗殺一家も玉ねぎが目にしみない訓練はしてなかったみたいだ。

ああ楽しかった。家でご飯を食べるのも悪くないでしょって笑いかけると、赤くなった目をきゅうと細めて睨まれた。





ソファに凭れて読書をしながら食後の小休止をとっていると、彼がおもむろに話し始める。

「今思えば、涙腺の機能を止めればよかったんだ」

「どうやって?」

「ここに針を刺す」

ぴっと眉間に人差し指を置かれる。
眉間にグッサリ針を刺しながら包丁を振るう彼を想像してうえ、と顔を歪めた。

「いや、反則でしょ。怖いし。そんなアホな理由で肉体改造しないでよ」

普通じゃない感性の持ち主の彼は、こうやって時折突拍子もない事を言っては私を困惑させる。
でも、今日ばかりは彼がちゃんと人間だと分かって安心した。

「私はイルミ君の貴重な顔を見られて楽しかったよ」
君の泣いてるとこなんて天変地異が起きない限りもう見れないかもね、なんて冗談めかして笑うと面白くなさそうに頬杖をついている。

「楽しかったのはナマエだけだろ。オレは全然楽しくない」
言い終わってから、何かを思いついたようにぱちんと指を鳴らした。

「⋯ねえナマエ知ってる?くすぐられるのって本来は不快な刺激だけど人間は笑うようにできてるんだって。不思議だよね」

「ふうん⋯⋯? て、何が言いたいの?」

唐突な彼の話題変換の意図がわからなくて首を傾げる。

「ナマエがオレの生理反応を見て楽しんでるんなら、オレにも同じ事をする権利があると思うんだ」

「⋯⋯え?」

一瞬で彼の意図する事を察する。
逃げようと身をよじると、光の早さで捕まえられた。

容赦なく押さえつけられてくすぐられる。

「ちょっと!ま、待って、あはは!」

無言無表情で機械的にくすぐってくる。怖い。
ちょっとは楽しそうな顔でもして欲しい。私との温度差が激しすぎる。

「もう、止めっ、イル、やだあっ⋯!」

息も絶え絶えにそう懇願すると、漸く掴まれていた腕が開放される。
たまらくなった私はソファから転げ逃げて、乱れた呼吸を整える為に深呼吸を繰り返した。

「⋯⋯はあ、まったくもう、この歳になって中学生カップルみたいな事するとは思わなかった」

「中学生カップルは所詮ここまでだろ」

涙が滲んだ目を擦る私を見下ろしていたかと思えば、再び上に覆い被さってきて逃げ道を塞がれる。

「何⋯?」

「次はオレでしか見れない顔を見たいんだ」

楽しませてよ、なんて耳元で囁く奴はやっぱり女の子なんかじゃなかった。

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