午前一時のレーゾンデートル



ヨークシンシティには多様な人間が訪れる。
実業家、商人、投資家、マフィア、詐欺師。海千山千の人間たちが割拠するこの街で占いを生業としている娘がいた。

薄暗い天幕の中は古今東西のあらゆる道具で溢れかえり、視界は焚きしめた香で燻っている。したがって非常に視認性が悪い。肝心のその娘の実力はといえば、買えと言った株が軒並み上がったり、内臓の悪い箇所をピタリと当てたりするというもので、下手なコンサルや医者よりも信憑性があるとかで少々気味悪がられながらも重宝されていた。

「ちょっと片付けて貰いたいものが」

ある一部の有権者のみが利用できる地下賭場。
くだんの娘、ナマエは天幕の入り口で内線電話を手にしていた。彼女に呼び出され、やって来たセキュリティガードはまたかお前かと言いたげな顔で床にのびている男とナマエの顔を交互に見比べた。

「格闘技かなんかやってんのか知らないけどさ、もうここで商売するの辞めたら?あんたいつか死ぬぜ」

ナマエの身を案じているように聞こえて意訳するとこうひと月に何度も屈強な男の体を運ぶ身にもなれという事なのだが、彼女は「えー、考えときます」なるいい加減な返事をして彼を更に呆れさせた。

占いの結果には当然守秘義務がある。何よりも徹底しなくてはならない原則である。ナマエはただの一度だってその心得に背いた事は無いが、口封じをはかる客が近ごろ後をたたない。
並の神経の人間ならさっさと店仕舞いをしてどこか別の行場へ消えるか、傭兵を雇う所だ。しかし彼女は違った。これはこれで箔がつくぞと喜んですらいたのである。

「それじゃあ雇い主さんに宣伝よろしく」

担がれる男の後頭部を手を振って見送った。
ほとんどの場合、迂闊にもナマエをか弱い女が一人だと舐めてかかってくれるので、ちょっと痛めつけて逃がしてやればいい宣伝になる。たまに人数が増える時があっても強化系の念を使うナマエだからこそ、彼女は小娘には物騒なこの場所でも図太く名を売る事が出来ているのだ。

「こんな単価のいい所なかなか無いもの。今日もよろしくね、スイちゃん」

水の様に透き通った水晶玉を撫でる。極限まで真円に研磨されたそれはしっとりと手に馴染み、鉱物本来の冷たさを伝えてくる。
人工的に作られた水晶やガラス製であれば透明度の高いものを得るのは比較的簡単だが、地中より掘り出された天然の水晶でこれほど混じり物が少ない物は珍しい。幼い頃から生活を共にしてきたこの水晶玉は、持ち主でさえ今なお見惚れてしまうほど美しいのである。

「どうぞ、足元にお気を付けて」

カランとチャイムがわりのベルが鳴る。始業のベルだ。さっきの男はノーカウントだから正真正銘これが本日最初の客である。





「いつものやつ」

今日最後の客の男は椅子に腰掛けるなり一万ジェニー札を何枚かこちらに投げて寄越した。おもむろに葉巻を吸い始めた男は「さっさとやれ」と一言言った。

「わかりました」

ナマエは占う客を選ばない。客がたとえ慇懃無礼を体現したような人間だろうがなんだろうが。単純に興味がないのでそうしている。ないしナマエの生活費はそうした客が散々賭博に興じた後の財布に余った金なので、選り好みするだけ損なのだ。
男の体に見立てた紙を置き、その上にチェーンに繋がれた指輪を嵌めた中指を差し出した。いつもは肝臓の真上で振り子が少し振れるので、アルコールの飲み過ぎには注意するようにと決まりきった文言を伝えるだけの作業だった。
しかし、この日の反応は違った。

(あれ、変なの、振り子が全く動かない)

男の要求は“さっさとしろ”である。怪訝な表情を浮かべ、首を傾げながら慎重に水晶玉を覗き込み始めたナマエの様子に業を煮やした男が苛立たしげに膝を揺らす。

「ちっ、おいどうした」

「えーと、少々お待ちを」

「こっちは忙しいんだ。早くしろ」

「ですが」

「なんだ!!」

「なにも見えなくて」

「は?」

声を張り上げた男が一瞬で押し黙る。

「なにも⋯⋯?どういう意味だ」

これがナマエの言葉でなかったなら男の顔色はこうも瞬時に青ざめはしなかっただろう。

「未来が無いというか、まるで死者の魂を見ているようで」

映し出されたイメージは闇のように暗澹としていてそう表現するより他に言い様が無かった。

「な⋯⋯⋯」

何を暗示しているか分からないほど当の男も鈍くない。
ナマエ自身でさえこの結果に違和感を覚えていた。男は決して健康体と呼べるような身体ではない。とはいえ、到底あと数時間のうちに命を落とすようなしなびた容貌にも見えなかったからだ。心臓や脳の血管の不調に由来する突然死はあり得ない話でないが先の占いに反映されなければおかしい。

「残念ですがあと何日も猶予はないようですね」

「猶予がない、だと」

「はい。何日も⋯⋯もないな、これは。もしかすると今日中に」

「ふ⋯⋯っ、ふざけるな!!」

言い終わらない内にガタン!と机が鳴動し、激昂した男の腕がそこらの物を薙ぎ払った。机の上にあった道具達が散乱し、ガラスが割れる音に驚いたナマエが身を竦める。

「数十分後には日付が変わるんだぞ!今日中なんて馬鹿馬鹿しい!小娘が付け上がって無礼な真似をしやがって⋯!覚悟しておけよ!」

口角に泡を立てながらまくし立て、男は足をもつらせながら騒々しく出て行った。どさくさに紛れて机に放った紙幣を綺麗に回収して。

「ああっ、ちょ⋯⋯!」

遠ざかる男、もといその手に握られた金に追いすがるように手を伸ばしたが、虚しく空気を掴んだだけだった。

「無礼なのはどっちだって話よ、全く」

床はひどい有様である。それに大切な商売道具達を傷つけられかけた。普段であればそのまま、あの礼儀知らずな客に愚痴を続かせる所だ。しかし今日ばかりは別のことにナマエは思いを巡らせていた。
やはり気に掛かるのはさっきの結果だった。どうにも納得がいかなかったのである。

どんなに死期が近い人間でもある程度の揺らぎはあるものだ。不治の病の患者が薬で寿命を少しだけ狂わせるように、自殺用に選んだロープの太さに成功率を左右されるように。しかしあれはまるで機械的にプログラムされた死のように思えてならなかった。
妙に不自然なのだ。


「疲れてるのかなぁ⋯⋯ん?」

箒を片手に嘆息し、散乱した装飾品やガラスのかけらを拾い集める。
ふと、手元が暗くなったのに気がつく。顔を上げれば入り口に誰かが佇んでいるのが見えた。

「見て貰える?」

腰まで綺麗に伸ばされた黒髪で一瞬女性かと思った。けれど、直後に聞こえた声や身体つきで彼女ではなく彼なのだと分かる。その違和感を飲み込むまでに返事が遅れたものの、客はさっきの男で最後と決めていたのでナマエはすぐに首を振った。

「ごめんなさい、今日はもう終わりで」

「さっきの奴から報酬受け取ってないだろ。このままやめればマイナスだけど客一人取れば埋め合わせにはなるよね」

「え、ちょっと」

制止する間も無く彼はさっさと椅子に腰掛けてしまった。その好き勝手な提案を丸々鵜呑みにするのは癪というものである。遠慮を知らない態度に一度は追い返してやろうかとも思う。だが約一名分の金を貰い損ねているのは事実だ。
しっくりこない感覚のまま今夜の店終いをするのも何となく収まりが悪い気がして、ナマエはしぶしぶ対面に向かった。

「⋯⋯料金は二倍、それでもいいなら」

「いいよ」

「じゃあお名前を」

「イルミ」

新規の客。それとなく会話を繋ぎつつ観察を始める。場所が場所だけに壮年を過ぎて老年、あるいは老獪という言葉がぴったりの客が大半を占めているこの場所で、ナマエの目にはイルミはいささか若すぎるように見えた。

「年齢は?」

「24」

返ってきた答えはナマエの推測と矛盾しない。
あとは彼の男にしておくには勿体ないくらい整った容姿や、立ち居振る舞いに嫌味なく備わる品位も合わせて有閑階級の息子が身内にでも連れられて来たのだろうと推測する。

「今日は家族の方と一緒でしたね」

ナマエが使うコールドリーディングという話法は当たり障りのない簡単な問答と観察から情報収拾をするものである。必要とされるのは会話における間の取り方、言葉の選択、観察力。ナマエはそれが抜群に上手かった。それに水晶玉による幻視を使い分けるといった具合で、彼女の占いは百発百中に近い精度を保っている。
世の中の特殊なことは大抵念で説明できるが、この幻視の能力だけは“念でも説明できない力”だった。

水晶玉を注視し集中する。初めはぼやけて浮かんだイメージにピントを合わせるように徐々に。しばらくすると頭の中に目的の人物像が鮮明に現れてくる。黒髪の、彼と瓜二つの黒目がちの瞳。

「弟⋯⋯?」

それはナマエの当初の予想とは明らかなギャップがあった。

「⋯⋯うそ」

「どうしたの」

「あ、いえ、何でも」

何でも、と咄嗟に口ごもる。成人しているイルミはともかくその彼より一回り以上歳下の子供が来れるような場所ではない。

「ねえ」

「はい?」

「ナマエって本名だよね」

「そう、ですけど」

「普通こんな場所を根城にするなら名前や顔は隠すよ。ただでさえナマエみたいな仕事をしてれば権力者の恨みを買うことが多いし」

「それは⋯⋯どうも」

気遣ってくれているのだろうか。それとも忠告のつもりなのか。いずれにしても目先の疑問に神経を裂きたいナマエの思考はぷつりと途切れてしまった。また一から集中し直しである。

「いつからやってるの?」

「え?ああ、ここに来たのは半年くらい前だけど」

「そうなんだ。それにしては随分と年季が入ってるように見えるね」

彼の興味は机の隅に飾られた金属製の盤に向けられているようだった。前に蚤の市で手に入れたもの。古代のカキンで使われていた占星術の道具である。占いには使わないがその平たくて鋭利な形は武器としては優秀だった。

「それは式盤っていうの。私は星占いはやらないからそれは置いてあるだけ」

「ふうん、どうして?」

「いや、なんというか、まあ趣味みたいなもので」

強行的に了解を取り付けた割に占われる気が薄いのは気のせいか。
自分が観察対象となる緊張感からか他愛ない世間話を始める客は珍しくない。とはいえこう頻繁に水を差されてはいつまで経っても肝心の対話に身が入らないではないか。それにイルミはどうもこれまでの客たちとは異なる理由でそうしているように感じる。ともかくだ。ナマエとしてはさっさと失意回復をはかって店じまいをしたいのだ。無駄話は本意じゃない。

「趣味って?」

「私のことはどうだっていいでしょ、今は貴方の話をさせてよ」

「じゃあこれもか。天然なら相当高いよね」

「無視かい。ねえ、ちょっと⋯⋯」

そろそろうんざりして胡乱な口調で応じたナマエだったが、その視線が自分が両手を翳している球体に注がれているのに気付くと、はっとその目を輝かせた。

「これの価値が分かるの?」

にわかにナマエの顔が綻ぶ。ここに来るような顧客はダイヤモンドや希少な貴金属の価値には聡くても、ありふれた鉱物である水晶なんかには目もくれない。
だからコレクションに気がついてくれたばかりか最も愛翫している道具の価値を理解してくれるとなれば悪い気はしないというものだった。

「そうなの!この子だけは貰いものなんだけどね、大きさといい形といい本当に気に入っててさ。本当は仕事用とは別に分けたかったんだけど、どうしてもスイちゃんじゃないと上手く勘がはたらかなくて」

「スイちゃんって言うんだ、それ」

「あ」

そして、思わず饒舌に口走ったところで我に返った。占い師が情報を開示させられては世話がない。
ぎいっと椅子を引く。

「悪いけどやっぱり今日はやめよ、やめ」

「まだ何にも占ってもらってないけど」

一体どの口が言うのだ。再びナマエは彼に冷ややかな目を向けたが、当の本人は特に気にしていない様子だった。少なからず集中しきれなかった自分にも非はある。

「⋯⋯なんだか今日は調子がイマイチなの」

それでも一度はとった客である。どう断りを入れるのが適当か。そう考えてちょうど彼も見ていたという前の客とのトラブルを引き合いに出すことにした。

「ほら、さっきだってヘマしちゃったの。貴方も見てたでしょ?」

「ヘマってさっきの客のこと?」

「そうよ。お金はいらないからまた明日にでも来てよ」

「あぁ、あれなら合ってるよ」

緊張感を欠いたようなイルミの口ぶりもさることながら、その言葉の意味を瞬時に判断できず会話に空白が生まれた。「何⋯?」一呼吸置いてから思考が追いついてくる。ずいぶんと奇妙なことを言う。

「合ってる、って何?」

「今ごろここの屋上から飛び降りて死んでる」

“飛び降りて死んだ”。耳に届いたイルミの言葉から頭の中に瞬時に映像が構築され、ナマエは衝動的に眉を顰める。こういう時ばかりは感受性が鋭すぎるのも考えものである。
だが、というかやはり、あの男は死ぬ運命にあったのだ。

「ふーん⋯⋯そう」

自死か事故かは定かでないが、結果的に大事な第二の商売道具とも言える自分の目に狂いはなかったのである。その事実を好意的に捉えようとナマエはすぐに表情を戻した。

「じゃ、間違いじゃなかったってことね。私にとっては朗報だわ」

「うん。これから死ぬ人間だってことは分かっても正直時間まで当てるとは思わなかったから驚いたよ」

「⋯⋯⋯」

今度こそ意味不明だった。もしかすると、いやもしかしなくても。自分はからかわれているのだ。さっきからの態度を思い返すとその可能性は十分にあり得た。

「ねえさっきから何なの?変なクスリでもやってるの?悪いけどヤク中はお断り。さっさと出てって」

「あの男さ」

「なによ」

「オレが操作してたんだよね。0時ちょうどに自殺するようにって」


そこでようやくナマエはイルミの顔をはっきりと捉えた。
彼は相変わらず顔色ひとつ変えずに佇んでいる。ナマエの脳の中でその暗闇のような目の色と水晶玉の中に見たイメージがじわじわと重なっていく。


「依頼は二人。そいつが一人目のターゲット。
でさ、もう一人ってのが君、ナマエなんだけど」


―――殺し屋。


彼が言い終わらぬうちに状況を完全に察したナマエはその場から飛び退いた。
瞬時に念じれば、中指に嵌められていたペンデュラムがオーラを纏う。ナイフはきっと役に立たない。相手が念能力者なら出し惜しみをしている猶予はないと思われた。
彼女が念を発動したのを見てイルミが一瞬だけ動きを止める。

迂闊だった。油断していた。まさか念を使える殺し屋なんて。それにこの男、悠長に会話なぞ続けていたのは自分を油断させる為だったのだろうか。そう思えばまんまとその通りになっていた自分が歯痒くてナマエはありったけの力を込めて腕を振るった。
オーラを纏って強化された金属製の振り子。直撃を受ければ、そこに穴が空く威力だ。が、それは彼の黒髪の何本かを切り取っただけで、チェーンごと絡め取られて右腕の自由を奪われてしまう。

「ちょっと落ち着きなよ」

事故なんかじゃない。あの客は殺されたのだ。道理で未来が見えない筈だった。ナマエのところに来た時点で既に彼は死人も同然だったというわけだ。

「落ち着け?こっちは殺されそうになってるってのに!」

とっさに逃れようともがいたが腕が更に締め上げられただけだった。

「無理に反撃しようとしなくていいよどうせ当たらないから」

「そんなのやってみなきゃ分からないでしょ!」

騒動の拍子に床に転がっていた水晶玉を足の甲で掬い上げる。ためらうことなく持てる限りのオーラと力を込めて蹴り飛ばした。

「⋯⋯っ!」

それもイルミの片手にあっけなく収まってしまう。
ナマエの念はオーラ量がその愛用度に応じて振り分けられるという点を除けば、物体の強化といういたってシンプルなものである。
強化系の彼女であれば素人相手にはサイコロ一個でさえ十分すぎるほどの威力を発揮する。いくら相手が念能力者といえど、名前まで付けて愛でている水晶玉をもってすれば、多少の隙は発生するに違いない。そう期待していただけに失望は大きかった。
つまり、ナマエの最大で最後の手段だった反撃はあまりにも簡潔に終了したのだ。

「これで終わり?」

その問いかけに答えられずにいると彼は「だよね」と、納得したように頷いた。

「やっぱり念自体は強化系か。それも単に物体を強化する能力でしかない。たしかに今のは少し痛かったけど普段護身用くらいにしか使ってないだけあって精度が悪い」

「はぁ!?馬鹿にしてるの?」

全て当たっていた。念の訓練など碌にしていないのだから当たり前である。こうして窮地に陥ってみて初めて知る。もっと経験を積んでおくべきだったと痛感しても今更だ。言い当てられた悔しさと屈辱感が募る。

「そこまで分かってるならさっさと殺しなさいよ性格悪い!」

「だから、殺すつもりはないってば」

駄犬よろしく吠えついたナマエにそう言うと捕らえていたチェーンごと、イルミはあっさりと腕を解いてしまった。拘束し続ける事にさほど固執をしないのはナマエ程度の攻撃であればこの近距離でも問題なく応戦できる自信があるからだ。
全身の毛を逆立てた猫のように敵意を剥き出しにするナマエの前で、倒れていた椅子を元に戻して何事もなかったように腰掛ける。

「そんなの信じられる訳⋯⋯」

唯一体が自由になったことで差し迫った危機は無いことは理解できる。だからといってすぐに警戒を緩められるような器用さまでは持ち合わせていなかった。

「嘘じゃない。殺すつもりの相手にわざわざ顔を見せたりしないし」

「どうだか。全部貴方の言い分じゃない」

「なら占ってみればいい。本心を探るのはナマエの得意分野だろ?」

その手に持たれていた水晶玉が返される。そして放り投げるようにそう言ったかと思えば、ついには視線まで外されてしまう。収拾がつかなくなったのはナマエの方だった。その顔に困惑が広がる。

「なにそれ。じゃあ、一体何しに来たの⋯?」

狼狽しつつもナマエは慎重に尋ねた。目の前にいるのは本物の暗殺者には違いない。依頼があったのも本当。ならばこの状況は彼自身の個人的な判断によるものである。仕事を棚上げしわざわざ正体を明かしてまで一体何を要求するつもりなのだろう。
ぐっと息を飲み、神妙な面持ちのナマエを前にイルミの横顔は平静そのものだった。

「親が見合い話を持ってきてさ」

「⋯⋯は」

「正確には母親なんだけど。お前もいい歳なんだから早く身を固めろって聞かなくてさ」

話の飛躍もいいとこだ。は、とナマエの口がそう一言発したきり固まってしまったのをいいことにイルミは淡々とした口調で話を続ける。

「その縁談の中から一人を選ぶか、目ぼしい奴を連れてこいって言われたんだよね」

「ま、待って。それと私に何の関係があるの?相性占いでもしろっていうの?」

「まさか」

素っ頓狂な質問をしている自覚はあったが、ものの見事にあしらわれてますます混乱する。
話の終着点が見えないのだから仕方ない。その人形のように整った横顔を注視してみるも全くといって心意が汲み取れなかった。ナマエの人生でこれほど考えが読めない人間を知らない。主な要因はその感情の一切を示さないポーカーフェイスである。得意の観察眼も彼の前ではまるで役に立たなかった。

「親が持ってくるような相手なんてどれも似たり寄ったりでさ」

「そう、なの」

殺し屋にも見合い話というものがあるのには少々好奇心が動いたが今はそれを掘り下げている状況ではない。それにしても見合い相手の容姿が好みじゃないなんて、彼でも人並みな悩みを持つことがあるのだ。

「だから別に誰でも良かったんだ。だけど自分で選ぶって選択肢があるならそれもありかなって」

「ねぇ、そっちも色々と大変だとは思う。けど、貴方がなにを言いたいのかやっぱり全くわからないんだけど」

このままでは埒が明かないので、さらに続きそうな話に割って入ったナマエが結論を要求する。そうすると彼の大きな目がすうっと横に動いて意味深な目線が向けられた。

「なによ、その」

そこでナマエはようやく、この長たらしい前置きの中のある可能性に思い当たった。
認めたくないがそうとしか考えられない。ナマエの唇が「もしかして」と、うわ言のように動いたのを見て「ナマエの能力があれば仕事がやり易くなる」とだけ言ってイルミはそれ以降の説明を省略した。

「はぁ!?何考えてるの!?」

信じられないことにイルミは自分の婚約者にナマエを据えるつもりでいるのだ。今日会ったばかりの、それも自分が始末する予定だった人間にだ。常識的にそんなのは有り得ない。そう当然の抗議をする。
しかし、ナマエの当然は彼にとっては無価値の討論であるらしく、まったくと言っていいほどその澄ました表情を変えない。

「ナマエだって殺されるよりはそっちの方がいいよね?」

ナマエが選ばれたのも占いの能力という利用価値があるからなのだ。婚姻を前提とした付き合いの申し出をプロポーズというが、これはそんな聞こえのいいものではない。もっとビジネスライクな言葉、引き抜きあるいはスカウトと呼ぶに近い。

「だ、だって私が生きてたら。その、貴方の立場だってないのに」

「死体を残せとは言われてないからね。辻褄が合うように戸籍を消して社会的には死んだことにすればいいだけ。
もっとも、戸籍が無いナマエには必要のないことだと思うけど」

個人的な情報のほとんどはすでに把握されているようだった。占ってもらいに来たというのはファーストコンタクトを得る建前でしかなかったのだと知る。

言う通り、ナマエは社会に存在しない人間だった。
スラムや流星街の出身ではないごく普通の家庭に産まれたナマエに戸籍がないとすれば、それは曲がらないものを曲げるような偏執的な意志によって行われたことに他ならない。

ある宗教の熱心な信者だったナマエの両親は、彼女の人間離れした能力を大いに喜んだ。できた娘だ、と。その後ナマエは教主のもとに養子に出されることになる。彼らが盲信している教団に捧げる供物として彼女の能力はまさにうってつけの代物だったのだ。両親からの最初で最後のプレゼントが例の水晶玉である。今思えば身の丈に合わない贈り物は両親にとっての罪滅ぼしであったのかもしれない。

だが、それでよかった。

誕生を本当の意味で祝福されたこともなければ、何のために生きているのかも分からない。自分は誰のために、なんのために生まれて来たのだろうか。そう自問し続けたナマエにとって水晶玉は自分という存在の象徴そのものだったのである。

「なるほどね、私は都合がいいってわけ」

「どうする?オレとしてはナマエの意見を聞くだけこれでも譲歩してるんだけどな」

どうにも譲歩されている気分ではなかったが、確かに能力だけが目当てなら脅して連れていく方が簡単だ。現にイルミの手には見えない位置にしっかりと針が握られていた。申し出を拒めばすぐにでも依頼を遂行する為だろう。婚約者候補はあっと言う間に暗殺対象になる。それを表だって交渉材料にしないところを見ると、やはり彼の言葉の通りを意味しているのかもしれなかった。
若い身空。まだ殺されたくはないと思うのが当たり前の心情、ではある。

「戸籍がなくてもなにも問題はないよ」

返答に窮し、間が生まれた。それを決断を迷っていると捉えたのかイルミがそんな事を言う。

「ナマエはオレや家族に付き添ってオレ達が安全に仕事ができるようにサポートしてくれればそれでいい。ついでに言えば子供を作る必要もないから、無駄なことを考えないで済んで楽でしょ?」

「無駄なこと、ね」

「うん。余計な感情やしがらみに縛られないで済むんだから」

「⋯⋯やっぱりそうなるのね」

薄々感じていた憶測が確信に変わる。

「分かった」

まだ殺されたくはない。
しかしだ。ナマエにだって譲れないものがあった。


「やっぱり、嫌」


ナマエは「家族」への強い憧れを持っていたのだ。教団を逃げ出してこんな場所に来てまで貪欲に金を稼いでいた理由はそこにあった。戸籍を金で買い、まっとうな人生のレールに乗ること。さらに言うなら結婚して家庭を持つこと。それこそが身寄りも帰る場所もないまさしく天涯孤独のナマエの最大の目標だった。

「嫌?どうして?」

「さっき貴方が言ったことは全部、私にとっては無駄なことなんかじゃない。だから」

だからこそナマエの答えはノーだった。そのために生きてきたのだ。叶わないのなら生きていても仕方がないと思えるほどには真剣だった。イルミの言う婚約者もそのうちに家族になるという意味ではナマエの目的は達成できる。だがあくまでもそれは形式として。望むのは平凡で健全な家庭であって殺し屋の打算的な選択肢の一つじゃない。妻として母としての立場ももたず闇の世界から抜け出せないままいいように使われてなるものか。

「なんだ。まぁいいよ、強制はするつもりなかったし」

引き止めるでもさして残念がるでもない。ついに最後まで表情筋を動かすことなく言うと、イルミは静かに針先をもたげた。あまりにも冷静な殺意。あと数秒後にはそれがナマエを殺す。彼の目にはもうナマエは一つの標的にしか見えていないのだ。
こうなることは察してはいたが、やはり怖くなる。どこまでも無機的でどこまでも理屈通り。文字通り死んでも理解できない。そんな彼と家族になどなれるはずもない。
針を持つ指がわずかに動く。来たる死にナマエは衝動的に身構えた。過去の自分の姿が目の裏に痛いほどちらつく。


「それでいいの?」

出し抜けに口から出た言葉に、ナマエ本人ですらどきりと胸が跳ねた。

「何のこと?」

針の代わりに疑問符が飛んでくる。感情まかせに尋ねているから明確な答えは用意していない。じわじわと腹の底から膨れ上がってきたやるせないモノが何なのか説明することは難しい。ただ、ナマエが憧れ、求めてやまないものを簡単に放棄しているような彼に対しての憤懣のようなものが湧くのを感じていた。

「見合いだって自分の意思じゃないんでしょ。望まない、好きでもない相手を条件だけで決めるなんて。不満だとか、嫌だとか、ないの」

どれが自分の最後の言葉になるか分からない恐怖に息が詰まる。それでも一度火がついた導火線を止められないように、腹のなかの感情を吐き出さずにはいられなかった。

「オレの感情なんか気にしてどうなるの?無いって言ったら?」

「そんなこと、あるわけない」

思わず語気が強くなる。生まれた瞬間から自分の人生は誰かのもので、唯一備わったこの力も他人に利用され続けた。いつかこの因果から脱却してやると鬱憤を燃やし続けたナマエは彼の言葉をおいそれと飲みこむことは出来なかった。

「自分の最後にそんな事を気にするなんておまえも変わってるね。まぁナマエは外の人間だから理解できなくても仕方ないか」

そう言ってイルミはここにきて初めて表情らしいものを見せた。冷淡だが問答無用で針を投げてくるほど不寛容ではないらしく、呆れたように首を竦めると当座ナマエの言葉に応じる姿勢をみせる。

「たしかに結婚を急かされているのは事実だけど、納得ずくの事だよ。それ自体には何の不満もない。
子供を作る必要がないのも正式な後継ぎが別にいるから。この関係が仕事、ひいては家のプラスになればそれでいい。だから親が決めた人間も初対面の人間もオレにとってはどっちも大差ないんだ。相手の人間性とか相性なんて二の次ってわけ」

「家のため⋯⋯」

「そう、それがオレの望み」

はっきりとした主張と明言にそれ以上何も言うことができなかった。その言葉に気後れや躊躇は一切感じられない。嘘偽りない本心からの言葉なのだとわかる。相性も人間性も二の次だと言ってしまえる他人への無関心さも、自分の感情すら無視できる無頓着もその独自の価値観によるものだ。彼はそうして教育され生きてきたに違いない。彼をここまで作り上げた彼の一族に背筋が寒くなるのを感じる。
だが、どうしてだ。その事実に気がついたときナマエの心の中には妙な感動があった。
彼の存在をこんなにも強く支えているのはナマエには到底窺い知ることができない家とやらの大きさだ。こだわり、愛着して執着して、手のひら大のちっぽけな存在理由に縋って生きてきたナマエにはそれが途轍もなく羨ましかった。

「⋯⋯⋯」

今更になって自覚してしまった。結局のところナマエが欲しかったのは家族という暖かな繋がりではなかったのだ。どんな形でもいい、揺るがない強固な存在理由が欲しかったのである。それこそ直前まで嫌悪していたものさえ欲してしまうように。長年渇望し続けた憧れへの認識がいつの間にか歪んでいたことに愕然とする。

「質問は終わり?それじゃ」

さよなら、と短い言葉を聞く。
急所に向かって飛んでくる針の動きが滑らかなスローモーションのように見える。

この力がなければ教団の貢ぎ物にされることも、殺し屋に見初められることもなかったに違いない。ただ、この力がなければ自分は家族と暮らし続けることができていただろうか?安穏とした生活を送れていただろうか?空想上の可能性を必死に浮かべてみても、どれも形をなさずに崩れていくだけだった。
世界のどこにも居場所は無い。ならば。呪いのようなこの能力ごと、死んでしまえば楽になれるのかもしれない。

耳慣れない破壊音と両手に強い衝撃。
真ん中から二つに割れた水晶が床に落ちて重い音をたてた。


「⋯⋯仕事に協力するだけなら引き受け、ます」


体が勝手に動いていた。眉間にまっすぐに突き刺さるはずだった針を受け止めたのは他でもないナマエの水晶玉だった。

「誰だっていいなら結婚相手の候補からは外して欲しい。そのかわり無償で貴方たちの仕事に協力する。なんだってやるから⋯」

生かしてくれ。
はっきりと言葉にするのはあまりに情けなくて最後は尻すぼみになる。一度は捨ててしまおうとした命にすがりつく自分はどこまでも滑稽に見えるに違いない。

「専属の執事の枠だったら空いてるよ」

そしてこの男はどこまでも平坦だった。ナマエの葛藤なぞつゆ知らずいっそ清々しいくらいの淡白さで応じてくれる。専属の執事がいるという事実に少々面食らうも、返す答えは一つだった。

この際、執事でも下女でも何でもいい。生きて目標を達してやる。一度死んだ身だと思えば恐れるものは何も無かった。
ナマエの頭は不思議と冴えていた。足元に転がった透明な欠片ももうどうでもいいことのように思えた。





また一から相手探しをしなければいけないのは骨が折れるが、ナマエの能力を好きに使えるというならこの成行きも決して悪くはない。

しかしながら、これほど家族を持つことに執着していたとは思わなかった。ナマエの生い立ちは事前に調べて知ってはいた。他人にいいように利用されて来た不遇な女。だからこそ余計な柵は欲しがらず、それがこちらにとっても都合がいいだろうと考えていたのは少しばかり早計だった。
口ぶりを聞くにおおよそ執事として働きながら相手探しをするつもりのようである。思いのほか図太い神経をしている。
ただ、ナマエは知らない。ゾルディック家の執事は恋愛禁止である事を。

結ばれた契約は殺さない代わりに執事として従事すること、である。
執事であっても一度家の内状を知った者は簡単な理由では辞める事は出来ないし、そうさせるつもりもない。ナマエが目的を達成するにはおのずと選択肢は限られるはずだ。
近いうちにそれを伝えることになるだろう。果たして彼女はどんな反応をするのか。直情型の彼女のことだ。またぞろ殺せと息巻くかもしれない。

「もしもし母さん?見合いの話はやっぱり断っておいて。うん、暫くは忙しくてさ」

なにしろ仕事と新入りの執事の教育を両立させるのだから。時間がいくらあっても足りないくらいだ。けれども当然別の目論見もある。
イルミには確信があった。家の話をした時にその顔に一瞬だけ見えた羨望の色。ナマエはゾルディックを理解できる数少ない他者になる。それはほんの少しだけ気分の良い誤算だった。


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